「供給」地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 02:59 UTC 版)
東方むけの奴隷商人はヨーロッパで貯蔵した。デンマーク商人はボルガ川地帯に拠点を持って、アラブ人商人とスラヴ人を取引した。チェルケス人奴隷は圧倒的にハレムに描写され、この地域からの多くのオダリスク (メイドを意味するodalıkというトルコ語から) がオリエンタリストの絵に現れた。非イスラーム教徒奴隷はハレムの様々な仕事(門番、召使い、オダリスク、音楽家、踊り子、宮廷小人en:court dwarf、妾)に役立った。オスマン朝では、エチオピア出身の最後の黒人奴隷のHayrettin Effendiが1918年に解放された。アンダルスのスラヴ系奴隷は、彼らを捕らえたヴァリャーグからもたらされた。彼らはカリフの護衛となり、段々と軍の重要な地位に上り詰めた。(サカーリバとなった。) 内戦が西カリフ国を内部崩壊させたあとには、、タイファ(群小王国)を取り戻すことさえあった。コルドバやセビーリャやグラナダのハレムの奴隷の需要の支柱は、カロリング朝に支配されていないゲルマン国家や北ヨーロッパの港出身のユダヤ人商人(mercaderes)によって組織された。こうした支柱は、ローヌ川渓谷を交差しピレネー山脈の南の地に達する。北アフリカのイスラーム教徒の奴隷襲撃が全ての地中海沿岸にわたり、キリスト教ヨーロッパを越え、北はブリテン諸島やアイスランドまで 及んだという歴史的な証拠がある。(ジャイルズ・ミルトンen:Giles Miltonの White Gold邦題「奴隷になったイギリス人」を見よ。) 7~15世紀に、地中海地域で交易される奴隷の多数は、圧倒的にヨーロッパの出自が多かった。 バルバリア海賊は、16世紀から19世紀まで、ヨーロッパで更には北アメリカで奴隷を捕らえ続けた。奴隷は中央アジア経由でアラブ世界に購入され、そのほとんどがトゥルク系かタタール系の出自だった。こうした奴隷の多くは後に軍に仕えエリート階層を形成した。 海では、船に乗り込んだり主に南ヨーロッパや西ヨーロッパ沿岸部の襲撃で人間を捕虜にしたバルバリア海賊が、この輸送に加わった。 ヌビアとエチオピアも「輸出」地域であった。15世紀、エチオピア人は西部国境地帯(通常エチオピア皇帝en:Emperor of Ethiopiaの領域の外側)つまりEnnareaからの奴隷を売った。それはしばしばインドで終わり、そこで彼らは船乗りか兵士として働いた。彼らはついには反乱を起こし権力を握った(ベンガルのHabshi諸王の王国、1487-1493). スーダン地域やサハラ・アフリカはもう一つの「輸出」地を形成したが、数の資料が欠けているため、その規模を推定することは不可能である。 最終的に、奴隷輸送は東アフリカに影響したが、距離と現地の敵意がこの東方貿易を遅らせた。
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