「万国公法」の広範な普及
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「万国公法」の記事における「「万国公法」の広範な普及」の解説
『万国公法』を含む近代国際法は、官僚・知識人に知られてはいたものの、中国においてその意義を積極的に認める者はすぐには多数派とならなかった。後述する日本とは異なり、その浸透は緩やかだったと言える。ただし外交官として海外に派遣される官僚が増加してくると、そうした人々の間では『万国公法』への関心が高まっていった。その需要を見越して『万国公法』は再版されており、上海申昌石印本(1898年)や海賊版など幾つかの刊本が出回っている。やがてそれは当時新たにつくられ始めた洋学(欧米学問)を教授する学校の法律用教科書として採用されるようになっていった(田2001)。 「万国公法」がさらに広く受容・認知されるようになったのは、日清戦争後である(林1995)。戦後における明治日本への関心の高まりと、それに比例して起こった日本への留学ブームによって、近代国際法の受容と富国強兵の間には密接な関係があることが大陸へと伝えられていった。留学生たちは、自らが日本の大学で新知識の吸収に努めたばかりでなく、雑誌を自ら立ち上げてそこに翻訳を掲載したり、書物にまとめて刊行したりした。それらは大陸にももたらされ、政治や思想方面に大きな影響を与えるに至ったのである。 この時期、日本より大陸にもたらされた翻訳書は法律方面に限らず多数に上るため、新知識を求める人々の便となるように幾つか書籍目録が作成された。たとえば教育学について中国訳されている本を探す場合、このような目録を紐解いて書名を調べたのである。当時の代表的な目録は『日本書目志』(1898年)、『増版東西学書録』(1902年)や『訳書経眼録』(1934年)などであるが、その中に書名がみえる国際法関連の書物は多数ある。うちいくつかを以下に挙げるが、その数の多さから日本における翻訳書が清末の人々の近代国際法受容に一役買っていたことがわかる。 蔡鍔訳『国際公法志』全一冊、広智書局 林啓訳『国際公法精義』全一巻、閩学会 沼崎甚三著・袁飛訳『万国公法要領』全二巻、訳書彙編社 丁韙良訳『公法新編』全四巻、広智書局 (英)労麟賜著・林学知訳『万国公法要略』全四巻、広智書局(「労麟賜」とは、原著改定に携わっていたW.B.ローレンスを指す)以上中国で刊行されたもの。 伊藤悌治述『国際私法』東京法学院、1888 ジェームズ・ケント著・蕃地事務局訳・大音龍太郎校正『堅土氏万国公法』 藤田隆三郎編述『万国公法 附判決例』岡島宝玉堂、1891 秋吉省吾訳『波氏万国公法』 内務省蔵版『海氏万国公法』 沼崎甚三編『万国公法要訣』博聞社、1888 福原鐐二郎・平岡定太郎共著『国際私法』金港堂、1892以上日本で刊行後、中国にもたらされたもの。 さらに近代国際法の受容が進んだことで、単なる翻訳でなく『万国公法』に中国人自らが注釈を施した著作も刊行されるようになった。曹廷杰注の『万国公法釋義』(1901)がその代表例である。曹廷杰は、義和団の乱後のロシアによる東北三省進駐に遭遇した人で、『万国公法釋義』は国際法によって国防を図ろうとして『万国公法』に注釈を加えたものである。
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