「万国公法」自体の変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 17:02 UTC 版)
これまで『万国公法』をはじめとする近代国際法を受容した東アジア諸国が、外圧もしくは自発的努力によって変革を迫られた過程を述べてきたが、東アジア諸国との遭遇は近代国際法自体にも変容をもたらし、現代の国際法へと脱皮する契機となった。 はじめに書いたように、西欧起源の近代国際法は、キリスト教国家どうしの取り決めというローカルな性格をもつものであった。しかし西欧列強の海外進出と共に、キリスト教的価値観を共有しない諸国家との関係を探るうち、「文明国」という国際法的な意味での国家概念を捻出し、キリスト教的か否かよりも「文明国」か否かが国家承認の要件と見なされるようになり、次第にキリスト教色を薄め、国際法被適用資格は抽象化・一般化していった。その結果として、前述の国家承認条件「主権国家であること」「条約遵守能力があること」が打ち立てられたのである。 これは国際法適用を受けるかどうかの前提条件が大きく変化したためである。キリスト教国家かどうかという国家の特質的なものから、国家制度という具体的・技術的な条件へと国家容認の条件が変化を意味するからである。すなわち地理的・宗教的・文化的な違いがあっても、西欧の国家制度を導入・模倣することで国際法が適用される道が開けることとなった(広瀬1978)。明治日本の諸改革や鹿鳴館建設、西欧風俗(衣服・食事・暦他)受容は、このような国際法の変容を敏感に察知した上で為されたもので、国際法適用を受け、西欧諸国に肩を並べるための努力だったのである。
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