「万代島ルート線」整備着手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 04:45 UTC 版)
「柳都大橋」の記事における「「万代島ルート線」整備着手」の解説
前述の市長選における各々の選挙公約においては、渡辺がみなと大橋を有料道路として建設計画の促進を推したのに対し、川上は「市民が下駄履きで渡れる無料の生活橋」として、みなと大橋に代わる下流橋の整備を進める方針を示していた。しかし川上は、みなと大橋の建設凍結後も具体的な代替案を示すことは無く、公約は履行されなかった。また当時の新潟県知事君健男は「革新嫌い」として知られ、革新市政に移行した新潟市内での公共事業に消極的な姿勢を示すなど、萬代橋下流部の連絡路整備を巡る思惑は複雑化していた。この間も下流部連絡路の建設促進を求める活動は続いたものの、いずれも具体化には至らず、新潟市中心部では交通量の増大が続き渋滞が慢性化していた。 こうした事態を受け、新潟県が1983年度(昭和58年度)から1984年度(昭和59年度)にかけて実施した「新潟港周辺地域整備計画調査」において、萬代橋の下流部を経由する臨港交通施設として「万代島ルート」と「港口部ルート」の2経路が提案された。前者が現在の柳都大橋、後者が新潟みなとトンネルに該当する。港口部ルートは1986年(昭和61年)6月に改訂された「新潟港港湾計画」に基づいて、当時の運輸省が主導する形で港湾施設に該当する「臨港道路」として1987年度(昭和62年度)に事業着手され、水底トンネル形式で整備されることになった。それに対して一方の万代島ルートは、当時の建設省の主導で新潟市の「都市計画道路」として1990年(平成2年)から原案作成に着手。そして1992年(平成4年)9月11日、新潟県は現在の栗ノ木バイパスに該当する都市計画道路「栗ノ木線」の名称と起終点を変更した上で、都市計画道路「万代島ルート線」として都市計画決定し、事業主体は建設省が担うこととなり、国道7号の区間として「万代橋下流橋」の名称で1993年(平成5年)に事業化され着工した。 先述の港湾計画では下流橋東詰側に所在する、万代島地区の再開発も盛り込まれていた。新潟県は下流橋着工の同年に万代島再開発の事業方針を発表し、下流橋はこれら事業とも一体的に整備が進められることになった。なお「万代島地区再開発事業」ではその一環として、のちに朱鷺メッセなどが建設されることとなる。さらに1994年(平成6年)12月16日、建設省は万代島ルート線を含む区間を地域高規格道路「新潟南北道路」として指定し、下流橋は新潟市中心部と郊外とを連絡する幹線道路の1つとして重責を担うことになった。加えて1996年(平成8年)12月には新潟県が2002 FIFAワールドカップの開催地に決定したことから、下流橋はまず橋梁部を含む秣川岸通 - 万代島間について2002年(平成14年)春の供用開始を目指す方針が決まった。
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