「マル」の誕生と戦局の悪化
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京子が弟の大太郎とつがいにされたのは、当時の動物園関係者の間に広がっていた「因習」が原因となっていた。まず子を産ませることが優先され、近親交配による弊害は軽視された。さらにカバなどの偶蹄目は、近親交配に「強い」とされてきたことも理由の1つであった。 京子と大太郎は、1928年(昭和3年)10月12日に交尾が確認されていた。その後京子の妊娠が確認されたため、新しいカバ室への移動を急ぐ必要があったが、新築工事はなかなかはかどらなかった。1度引っ越しに失敗した後、京子は1929年(昭和4年)5月31日に流産した。翌日プールの底から子が収容されたが、すでに死んでいた。剖検の結果、この子は京子の体内で数日前に死亡していたことが判明した。次の出産は1936年(昭和11年)7月8日で、そのときの子はわずか8日間生存したのみであった。 3度目の出産は、1938年(昭和13年)5月27日のことであった。3度目の子はオスで元気に育ち、「マル」と名付けられた。6月10日にはガラス越しに公開し、6月21日には通常公開とした。その後京子は1942年(昭和17年)8月3日に4番目の子を流産していて、結局無事に育ったのはマルのみであった。 時代は戦争の影が次第に濃くなっていった。日中戦争が始まった1937年(昭和12年)夏から1940年(昭和15年)頃までは、戦場で荷物運搬などで使役された動物たちが「戦功動物」として動物園で飼育展示されたり、行事に参加したりすることがある種の「流行」となっていた。上野動物園でも、盧溝橋事件で「戦功」を挙げ、第2次世界大戦後に「入れ歯をはめたロバ」として有名になる一文字号などが来園したのはこの時期であった。 この時期の上野動物園では公式に園長という職名はなく、最高責任者は「主任技師」という職名であった。1936年(昭和11年)7月25日に発生したクロヒョウ脱走事件を契機に、危険な動物を飼育している動物園としては責任体制が不明確だと報道関係者などから問題視する声が上がった。それに応えて上野動物園に正式な園長制度を設けることになり、1937年(昭和12年)3月1日、当時34歳の古賀が「東京市保健局公園課上野恩賜動物園長」に任命され、副園長格の「飼育掛主任」には技師の福田三郎が任命された。 クロヒョウ脱走事件の発生を受けて、各地の動物園では空襲と危険な動物の脱走などの非常事態に備えた訓練が実施され始めた。1937年(昭和12年)9月18日、上野動物園では緊急猛獣脱出対策演習が行われた。クロヒョウ脱走事件のちょうど2年後にあたる1938年(昭和13年)7月25日には動物脱出捕獲演習が行われ、同年9月12日には動物園内の5つの場所に避難所を設けて「防空演習」を実施している。 戦局は悪化の一途をたどり、人間の食糧事情が悪化するとともに動物たちのエサも不足し始めた。1937年(昭和12年)9月には、ライオン、トラ、ヒョウなどの肉食獣にエサとして魚肉を与える実験が行われた。草食動物の飼料の調達も困難になっていき、1941年(昭和16年)になると草食動物の飼料に茶殻を集めたり、公園の樹木や街路樹などの剪定があったときはその枝葉を貰い受けたりしていた。肉食獣向けの飼料には、ニワトリの頭が主力となり、1941年(昭和16年)11月にはネズミの肉なども使用した。エサの調達に苦心する上野動物園では、草食獣の中で同じ種がたくさんいるものについては「整理」することとした。1941年(昭和16年)2月18日にはヒマラヤグマ3頭とニホンツキノワグマ1頭が銃殺された他、ヤギなどが「整理」の対象となって、その肉が肉食獣のエサとなった。
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