「フジヤマのトビウオ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 04:11 UTC 版)
「古橋廣之進」の記事における「「フジヤマのトビウオ」」の解説
日本大学進学後に水泳を再開。この頃の想い出として、「国民体育大会に出場するために東京から兵庫県の宝塚市へ向かったが、汽車賃がないので無賃乗車して乗り継ぎ、やっとのことで宝塚に行った」と語っている。日本大学水泳部の同期には橋爪四郎がおり、橋爪は戦後の日本水泳界を古橋と共に支えた。 1947年(昭和22年)の日本選手権では、400m自由形を4分38秒4で優勝した。公式記録にはならなかったものの、当時の世界記録を上回るタイムを出した。 敗戦国の日本は1948年(昭和23年)のロンドンオリンピックへの参加が認められなかった。日本水泳連盟はロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に日本選手権を開催し、古橋は400m自由形で4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出した。これはロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回っていた。同年9月の学生選手権では、400m自由形で自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出し、これも世界記録を越える記録だった。しかし、日本が国際水泳連盟から除名されている時期の記録であるため、世界記録として公認されなかった。とはいえ、敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に世界記録を連発する古橋は国民的ヒーローであった。 1949年(昭和24年)6月には日本の国際水泳連盟復帰が認められ、古橋や橋爪四郎ら6選手は、8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加した。古橋は400m自由形で4分33秒3、800m自由形で9分33秒5、1500m自由形で18分19秒0の世界新記録を樹立し、アメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と書かれた。この遠征はサンフランシスコ講和条約締結前であり、米ドルがなかったため、日本水連幹部や在米日系人からの寄付で参加が実現できた。渡航前にはGHQのダグラス・マッカーサー元帥や昭和天皇からも励ましを受けた。戦後間もなかったこともあり、大会前はアメリカ国民にジャップと呼ばれることもあったが、大会後は一躍ヒーローとなり、ハリウッドではボブ・ホープらにサインをねだられた。 1951年(昭和26年)に日本大学法文学部(現在は法学部)政治経済学科を卒業し、大同毛織に入社。多くの大企業や役所などから特別待遇での誘いを受けていたが、社業と水泳の両立を目的にあえて同社に入社したという。同年には第1回日本スポーツ賞を受賞している。1952年(昭和27年)の日本選手権では思うような記録が出なかったが、その年のヘルシンキオリンピックに出場した。しかし既に選手としてのピークを過ぎていたことや、1950年(昭和25年)の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していた ことが響き、五輪本番では400m自由形8位に終わった。この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーは涙声で「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないで下さい。偉大な古橋の存在あってこそ、今日のオリンピックの盛儀があったのであります。古橋の偉大な足跡を、どうぞ皆さま、もう一度振り返ってやって下さい。そして日本のスポーツ界と言わず、日本の皆さまは暖かい気持ちを以て、古橋を迎えてやって下さい」と述べた。
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