「ハリー」トンネルの完成
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「スタラグ・ルフト III」の記事における「「ハリー」トンネルの完成」の解説
「ハリー」は1944年3月に完成したが、幾人かがトンネル「トム」の掘削作業に従事していた米軍捕虜が7カ月早くもう一つの区画に移された。「大脱走」に参加した米軍の戦争捕虜は実際には一人もいなかった。好天が成功の大きな要因であるため事前にこの脱走は夏に決行されるように計画されていたが、1944年初めにゲシュタポが収容所を訪れ、脱走予防措置の強化を命じたためブッシェルはトンネルが完成し次第早急に脱走するように命じた。 トンネル掘削に参加した600名の捕虜のうち200名のみが脱走できる予定であった。捕虜は2つのグループに分けられ、「常習犯」(serial offenders)と呼ばれる最初の100名のグループは偽の身分を保証され、この中にはドイツ語を流暢に話せる者や脱走経験者が含まれていた。加えてこの中の70名はトンネル掘削に最も貢献したと考えられる者であった。2番目のグループの100名は成功の見込みはほとんど無く、参加を決めるためにはクジを引かねばならなかった。「ハード・アーサーズ」(hard-arsers)と呼ばれたこれらの捕虜はドイツ語をほとんど又は全く話せず、最小限の偽造証明書や道具しか身に付けていないため夜間に移動する必要があった。 捕虜は、漆黒の闇に紛れて立ち去れるように月の出ない夜になるまで1週間待たねばならなかった。ついに3月24日の金曜日に脱走計画は開始され、夜の訪れと共に脱走者はトンネルのある第104号バラックに移ってきた。捕虜にとり不運なことにハリーの隠し扉が凍り付いていることが分かり、ドアを開けるために1時間半の遅れが生じた。更に大きな妨げは、トンネルの長さが想定よりも短い距離で終わっていることであった。計画ではトンネルは森の直ぐ傍まで延びているはずであったが、午後10:30に最初の捕虜は木の茂りよりも手前の監視塔に近い場所で地上に出た(アラン・バーゲス:Alan Burgessの著書『The Longest Tunnel』によるとトンネルは計画通りに森には到達していたが、木の茂りが隠れるには不十分な程まばらであったという)。気温は氷点下で地面には雪が積もっており、捕虜が隠れるために這った後には黒い跡が残った。歩哨を避けるために計画された1分おきに1人の脱走のペースは落とされ1時間当たりに10人強とされた。100番以降の番号を割り当てられた捕虜は夜明け前に脱走できそうになかったので戻されることになった。各々のバラックに戻ろうとするところを発見されるかもしれないので戻る捕虜は自身の制服に着替えてから暫く睡眠をとった。その後、空襲により収容所の(トンネルも)照明が落とされ、更に脱走のペースが鈍った。午前1時頃にトンネル内で崩落が起こったが修復された。 これらの問題にもかかわらず76名がトンネルを這い抜け、とりあえずの自由を得た。3月25日の午前4:55、ついに77人目がトンネルから出てくるところを歩哨の一人に発見された。森の中にいた捕虜は駆け出したが、森の端までたどり着いたばかりのヴィクトリア十字章受勲者のレオナルド・トレント少佐は立ち上がり投降した。トンネルの入り口が何処か分からない歩哨はバラックの捜索を始めたが、これで捕虜は偽造書類を焼却処分する時間ができた。第104号バラックは最後に捜索されたバラックの一つであり、歩哨は犬を連れていたにもかかわらずトンネルの入り口を発見できなかった。最後に歩哨のシャルリ・ピルツ(Charlie Pilz)が出口からトンネルを遡ったが、反対側の端で閉じ込められてしまった。ピルツは助けを求め始め、捕虜は入り口を開けて助け出してやった。ついに入り口が判明した。 脱走者が直面した当初の問題は、彼らのほとんどが昼間になって駅が歩行者用地下トンネルの側壁の奥まったところにあることが分かるまで列車の駅を発見することができなかったことであった。その結果、彼らの多くは夜行列車に乗りそこない、徒歩での移動か昼間にプラットホームで列車を待つかのどちらかに決めざるを得なかった。もう一つの予期せぬ問題はこの3月がこの30年間で最も寒さを記録したことで、雪は5フィート (1.5 m)の深さに積もり、脱走者は森や原野に身を隠すことができずに道路を使うしかなかった。
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