「さすがに猛き武士も」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 07:40 UTC 版)
「一谷嫩軍記」の記事における「「さすがに猛き武士も」」の解説
「陣屋」で熊谷が戻ってくる場面の浄瑠璃には、「…花の盛りの敦盛を討って無常を悟りしか。さすがに猛き武士(もののふ)も。物の哀れを今ぞ知る。思ひを胸に立帰り」という文句がある。七代目幸四郎は熊谷の出について、実子の犠牲で自身の役割を果たし、墓参の後(相模が陣屋に来た時、堤軍次は熊谷が「廟参」に行っていると答えている)、悟りの境地で立ちかえるつもりで演じること、つまり無言の「間」で観客を引きつける芝居をする芸力が求められるとし、「この花道の出と僧形になってからの花道の引っ込みとがもっとも性根処で、熊谷は仏心より始まって仏心に終わるというのが実相です。…悲痛な思いを胸底に秘めているように意を用いなければなりません」と述べている。 いっぽう西沢一鳳は『伝奇作書』において、次のように記している。 「…文化の末、文政の始め頃は、嫩軍記の熊谷などは仕手の役者を好みし事なり。既に奥山〈為十郎の祖〉は容(すがた)猛く、いか様坂東武士とも見ゆるが故、熊谷は毎度せしが…」 「奥山」とは初代浅尾為十郎のことで、この『一谷嫩軍記』の熊谷を演じるのは「容猛く、いか様坂東武士とも見ゆる」役者でなければならない、つまり容姿の上で演じる役者を選ぶ役だったということである。このことは原作の浄瑠璃においても、「組討」と「陣屋」で熊谷のことを「猛き武士」と言い、またのちに「陣屋」で「有髪の僧」に姿を変えたときも浄瑠璃の地の文に、「ほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日かげに。とける風情なり」とある(ただしこの文句は、「團十郎型」では幕外の引っ込み直前に移して使われている)。これは柊の葉のように厳つい雰囲気の熊谷が、涙をこぼすありさまを溶けた初雪にたとえている。熊谷のイメージは、作者並木宗輔が意図したものや古い時代の演じ方としては、荒々しく厳つい坂東武士であるべきとされていたのである。 しかし荒々しい坂東武者が、忠義のためにわが子を身代りに殺すというところまではまだしも、それによって最後は出家遁世してしまうというのは、演じる側にとっては非常にやりにくい役である。熊谷は「陣屋」の舞台の始まる前から、武士を捨て出家遁世することを決意している。それが終始厳つい雰囲気の人物では、その心根の哀れさが表現しにくい。歌舞伎において「團十郎型」が残ったのは、「劇聖」と呼ばれた九代目團十郎がやったからというだけではなく、厳つさや荒々しさを抑えて芝居をする「團十郎型」のほうがまだやりやすいという事情があったのである。現に「芝翫型」と「團十郎型」を実際に演じた二代目松緑もこのふたつを比べてみて、「團十郎型」のほうがやっていて気持ちがいい、すなわちやりやすいと述べている。 戦に出て敵の命を取る事はもちろん、主君の命であればわが子の命も躊躇なく差し出す荒くれ武士。しかしその心は深く傷ついていた。ふつうの親ならわが子の死を悲しまぬ者はないであろう。そしてそれは「さすがに猛き武士も」例外ではなく、まして自分が手にかけたとあっては平常心ではいられない。結局熊谷は、これからまさに平家を追討しようというときに武士の身分を捨て、出家遁世と称し戦場から去ってしまう。つまり宗輔が狙ったのは人物の見た目と内面に大きな落差を作り、それによってその悲劇をより深くすることであった。熊谷直実が須磨の浦で敦盛ならぬわが子を討ち、それにより出家するというのは、もとより宗輔がこじつけた筋書きではあるが、どんな身分の人間だろうと、たとえ「猛き武士」と呼ばれる者だろうと人として心の折れぬことはないということを、宗輔はこの作意を通して述べているともいえるのである。
※この「「さすがに猛き武士も」」の解説は、「一谷嫩軍記」の解説の一部です。
「「さすがに猛き武士も」」を含む「一谷嫩軍記」の記事については、「一谷嫩軍記」の概要を参照ください。
- 「さすがに猛き武士も」のページへのリンク