殺人
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宗教と殺人
ほとんどの宗教では、基本的に殺人は行ってはいけないこととして扱われている。例えば、仏教の五戒においても不殺生戒があげられている。しかし、世界宗教の多くの聖典には暴力や殺人を正当化できる理論や実例が含まれており、歴史的に多くの宗教戦争や事件が起きている[29]。
輪廻の考えを持つ仏教には、現世のすべては虚妄であるという「空」の理論と、殺人より正法を誹謗中傷することのほうが罪が重いという教えがあり、これらが仏教を巡る多くの暴力の口実となってきた[29]。
セム型一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ信仰を共有する集団のための宗教として発展してきた。旧約聖書やクルアーン、ハディースでは条件付きながら異教徒の撲滅や殺人を推奨しており、非暴力を説いた新約聖書を聖典とするキリスト教も、必要な時は旧約聖書を引いて暴力を正当化している[29]。
以下では、殺人だけではなく、殺人を含む戦争や侵略などの暴力に関する各宗教の見解について概説する。
ユダヤ教
ユダヤ教のタナハ(聖書)では、様々な殺人について記載されている。創世記では、カインとアベルの章で、カインがアベルを殺したのが人類最初の殺人とされる[30][31][32]。また、ユダヤ人の祖先であるヤコブの娘ディナがヒビ人のシケムに犯されると、兄弟シメオンとレビは剣を取って町を襲い、男子をことごとく殺し、シケムとその親ハモルを殺し、ディナを助けた[33][34]。ヤコブは厳しく二人を批難した。また、ヤコブの子ユダの長子エルは神の意に反したので殺され、ユダはエルの弟オナンに兄の妻を娶るよう言われたが、精液を地に漏らしたため、神に殺された[35]。また、ソドムとゴモラは神によって滅ぼされた[36][37]。
モーセの十戒の中では神(ヤハウェ)は殺人を禁じたが[38]、以下に見るように異教徒の殺害は繰り返し行われた。
モーセ不在の間、金の子牛を祀った人々3000人はモーセによって虐殺された[39][40]。また、レビ記20章ではモレク信者や、口寄せまたは占い師、父母をのろう者などは必ず殺されなければならないとされる[41]。
民数記では、カナン人のアラデの王がモーセを遮ると、神はモーセの要求に応じてカナン人を絶滅した[42][43]。モーセはアモリ人の王シホンを打ち破り占領、バシャン王オグがモーセを遮ると、バシャンのすべての民を撃ち殺した。ではモーセは報復として遊牧民ミデアン人の男、男を知っている女をみな殺した[44][43]。
申命記7章では神はユダヤ人に敵対するヘテ、ギルガシ、アモリ、カナン、ペリジ、ヒビ、エブスの7つの部族の絶滅を命じているとモーセは告げる[45]。
キリスト教
イエス・キリストは「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。[46]」「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。[47]」と愛敵を説き、暴力を否定した[48]。
一方、イエスはファリサイ派らに対して「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」と言った[49]。
十字軍
しかし、その後のキリスト教の歴史においては聖戦思想として戦争を肯定し奨励することが度々なされた。第1回十字軍でウルバヌス2世教皇は、トルコ人やペルシア人を絶滅せねばならないと述べた[50][51]。
第2回十字軍を勧誘したクレルヴォーのベルナルドゥスは1130年の著作「新しい騎士たちを称えて」で、「彼(騎士)は死を恐れはしない。むしろ死を望む。」「汝ら騎士たちよ、自信を持って進め。勇気をもってキリストの十字架の敵を追い払え。(略)戦いから勝利のうちに帰還することはなんと名誉あることか。殉教者として戦いのうちに死ぬことはなんと祝福されることか。」「キリストの騎士たちは、敵を殺すことで罪を犯すとか、自身の死によって危険がもたらされるということを危惧することなく、主のための戦いを安心して行うことができる。」「キリストのために殺すか死ぬかすることは罪ではなく、最も名誉なことである。殺すのはキリストのためであり、死ぬのはキリストをうることである。」「キリストの騎士は、恐れることなく殺し、さらに安んじで死ぬ。」「悪行者を殺害しても、彼はまさしく殺人者ではなく、もしそういえるとすれば、悪殺者(malicida)である。」「異教徒の死はキリスト者の名誉である。なぜなら、それはキリストの栄光を称えるものだからである。」と説いた[52][53]。第2回十字軍が惨敗すると、ベルナルドゥスは惨敗の原因を十字軍兵士の罪に求めた[54]。
イエズス会
日本でもイエズス会による異教徒弾圧の動きがあった。イエズス会日本支部の準管区長ガスパール・コエリョは日本全土をキリスト教に改宗させたあとには日本人を尖兵として、中国に攻め入る計画を持っており、実際に宣教を優位に進めるため、またキリシタン大名を支援するために、フィリピン艦隊の派遣を求めたり、大砲を搭載した船を建造させた[55][56]。
コエリョはキリシタン大名の大村純忠に領内の異教徒の根絶を進言した[57][58]。さらにコエリョがキリシタン住民にデウスと偶像崇拝の違いについて説教すると、住民たちは仏教寺院を何一つ残らないほどに破壊した[59][60]。コエリョは他にも信徒に仏教寺院への放火を進め、領内の神社仏閣は破壊され、その後、87の教会が建設され、大村純忠の6万人の家臣は全員キリスト教に改宗した[61][62]。このことを報告したルイス・フロイスも「善はデウスの御慈悲に出ずるが、デウスの無限の恩恵によって、かくてこのようなことが生じた」と称賛している[63]。コエリョは豊臣秀吉に対して、寺社破壊は信者の自発的行動であると回答したが、しかしこれはキリスト教に基づくイエズス会の意図でもあった[64]。
こうした状況は他のキリシタン大名大友義鎮の領内でも同様であり、高山右近の領内の神社仏閣は破壊され、高槻城を中心とした領内(現在の高槻市)には当時の神社仏閣はほとんど残っておらず[64]、有馬晴信の領内でも仏教寺院が焼かれた[65][66]。キリシタン大名の小西行長は、領内の住民にキリスト教への信仰を強制しただけでなく、一度キリシタンになったものの浄土真宗を説いていた仏教僧侶を殺害した[67]。
日本贔屓といわれたオルガンティーノも寺社破壊を「善き事業」として賞賛し、「寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望む」と書簡で報告した[64][68][67]。
島原の乱
島原の乱ではキリシタン弾圧が苛烈であった一方で、蜂起後のキリシタンも非キリスト教徒の村民に対してキリスト教への改宗を迫った。蜂起した大矢野村(現上天草市大矢野島)のキリシタン民は、浄土真宗の岩屋泊村民に対して「キリシタンにならなければ皆殺しにする」とキリスト教への改宗を脅迫し、島原有馬藩では蜂起したキリシタンによって代官、仏教寺院の僧侶、神社の神職(社人)らが殺害され、キリスト教に改宗しない家は放火された[69][70]。天草御領村(現天草市五和町)もキリシタンではなかったため放火され、住民は海へ避難したが、一揆は「キリシタンにならなければ皆殺しにする」と迫ったので否応なく改宗した[69]。
プロテスタント
宗教家のトマス・ミュンツァーによるドイツ農民戦争では農民10万人が犠牲となった[71]。マルティン・ルターは鎮圧側に変更した後、1525年の『盗み殺す農民に対して』において反乱農民の殺害を煽った[72]。また、ルターは魔女狩りでも魔女として女性数人の殺害を支持した[73]。
古プロイセン合同福音主義教会牧師のディートリヒ・ボンヘッファーは、ヒトラーの行動は人間軽蔑の極み、神への軽蔑であり絶対に許容できないとし、ヒトラー殺害の道徳的是非については神に委ねるとして、ヒトラー暗殺計画に加担した[74][75]。
イスラム教
イスラム教の聖典コーランには「汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において(聖戦すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。だがこちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義をなす者どもをお好きにならぬ」「騒擾がすっかりなくなる時まで、宗教が全くアッラーの(宗教)ただ一条になる時まで、彼らを相手に戦いぬけ」[76][77]、「多神教徒を見つけ次第殺してしまうが良い。ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待ち伏せよ。」とジハード(聖戦)が説かれる[78][79]。
ムハンマドの言行録「ハディース」「聖戦と遠征の功徳」には、「イブン・アッバースによると、神の使徒は「メッカ征服後に移住というものはなく、ただ聖戦と善意あるのみ。汝ら戦いに喚びかけられたならば、直ちにそれに赴け」と言った。」「アッラーの御為に財産も生命も賭して戦うこと。(略)そうすればアッラーも必ずお前たちの罪を赦し、せんせんと河水流れる楽園に入らせ、アドンの園の素晴らしい住居に入れて下さろう」と聖戦について説かれた[80][81]。
イスラーム学者の井筒俊彦は「神の啓示に関係のない邪宗徒の場合は、イスラームに改宗するのが生命を保持するための唯一の道であり、そうでなければ剣で斬られるほかはない」状況がかつてはあったとする[82][83]。また、ムハンマドの時代のアラブ諸部族では部族ごとに神々がおり、当時のカアバ神殿にはそれぞれの部族の神々が祀られ、女神像さえあったが[84]、ムハンマドはそれら全ての多神教の偶像を打ち壊し、以後、アラブの多神教は途絶えた[85]。
仏教
仏典においては、殺人是認論が各経典に見られる[86][87]。
華厳宗
中国華厳宗の澄観(738年 - 839年)による論書「大方広仏華厳経疏」十廻向品には「悪趣の有情を救わんがため、衆生の苦悩を救わんが為に菩薩は悲願の働きをかけていく。菩薩は衆生を利益せんが為に代受苦として苦行を実践する。菩薩は煩悩による苦の身体を受け、衆生が苦の因を造らないように法を説く。そして菩薩は衆生が無間地獄に堕ちるような行為を止めさせようと殺害するのであった[87][88]。華厳宗の智儼も「華厳経内章門等雑孔目章」において「菩薩は命ある衆生の命を断じる。(略)(迷いの)六道相続の命を断じるので殺生と名付ける[87][89]。
臨済宗
臨済義玄(? - 867年)の『臨済録』「内においても、外においても、出逢った者は、すぐに殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親類縁者に逢えば親類縁者を殺してこそ、はじめて解脱して、何者にも拘束されず、一切に透脱して自在を得る」[90] と説く。 しかし、仏教学者西村恵信は殺人(殺母、殺父、殺阿羅漢)は仏教の五逆罪であり、宗教の否定であり、そのまま実践すれば地獄に堕ちる行為であるが、「もし作業に落ちて仏を求めたら、仏は生死輪廻の大きな兆である」(11段)というのであり、仏そのものが否定されているのではなく、臨済の「殺す」は仏や法や師を「求めることを殺す」と読まれるべきであるという[91]。
浄土真宗
親鸞(1173年-1262年)は『正像末和讃』で浄土真宗の信仰を否定する者は地獄に堕ちるとし、「皇太子聖徳奉讃」では浄土真宗の信仰を滅ぼそうとする者に対して暴力でもって戦うべきだと受け取れる文言を残している[92][93]。
浄土真宗本願寺派は石山合戦で「進者往生極楽 退者無間地獄(進む者は往生極楽、退く者は無間地獄)」と軍旗に書き、一向一揆の享禄・天文の乱では証如が討ち死にされた者は極楽に往生すると述べた[94]。
ヒンドゥー教
ヒンドゥー教には輪廻の概念が有り、肉体を霊魂の一時的な所有物とする死生観がある。その聖典『バガヴァッド・ギーター』では、他人の肉体を抹殺しても、その生命の本質である霊魂が傷つくことはないと説いている[95]。
オウム真理教
麻原彰晃を教祖とするオウム真理教は、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件で多数の人間を殺害し、またオウム真理教男性信者殺害事件など信者を殺害する事件も度々起こしていたことが裁判で判明した[96]。
また、麻原はチベット密教などで意図的に自己または他者の意識を移し替える転移・遷有の修行を意味する「ポア」を「殺害」という意味で用い、また信者らに殺人を命令したり、殺害後に殺害を正当化する為に用いた[97]。タントラ密教におけるヨーガ体系においてポアは、殺害とか他者の魂を奪う意味はない[97]。
注
出典
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