尾崎行雄
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栄典
- 位階
- 勲章等
- 1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[25]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[26]
- 1916年(大正5年)7月14日 - 勲一等旭日大綬章[27]
- 1938年(昭和13年)2月11日 - 金杯一個[28]
- 外国勲章佩用允許
- 1906年(明治39年)3月23日 - イギリス:ロイヤル・ヴィクトリア勲章メンバー[29]
主な著書(昭和期)
- 『咢堂漫談』(日本評論社、1929年)
- 『外遊断想』(中央公論社、1934年)
- 『近代快傑録』千倉書房、1934年/大空社(復刻版)、1995年
- 『政戦六十年』(日本評論社、1935年)
- 『咢堂自傳』(同刊行会、1937年/大阪時事新報社、1947年)
- 『日本憲政史を語る』上・下(モナス、1938年)
- 『戦時回想』(朋文堂、1946年)
- 『随想録』(紀元社、1946年)
- 『咢堂清談』(未來社、1947年)
- 『明日の日本のために』(萬世書房、1947年)
- 『回顧漫録』(岩波書店、1947年)
- 『狂瀾の中に立ちて』(中部民論社、1947年)
- 『日本國民に告ぐ』(香柏書房、1947年)
- 『咢堂回顧録』上・下(雄鶏社、1951年)
- 『民権闘争七十年』(読売新聞社、1952年)
- 『尾崎咢堂全集』(全12巻)同編纂委員会編(公論社、1955-56年)
- 『民主政治読本』(石田尊昭解説・編、世論時報社、2013年10月)。元版・日本評論社、1925年
- 『人生の本舞台』(石田尊昭解説・編、高橋大輔あとがき・編、世論時報社、2014年9月)。元版・中部民論社、1946年
家族・親族
- 父の尾崎行正は三重県士族。旧姓は峯尾といい、武蔵国八王寺散田村出身[30]。母方の祖父に八王子千人同心(武田家遺臣を中心とした警護組織)組頭の植田孟縉がいる。行正は相模国津久井郡又野村の名主・尾崎彦四郎行直の娘婿として家督を継ぎ、尾崎彦四郎(行正)を襲名[31]。尾崎家は行直の代に零落しており、行正は寺子屋を開いていたが、1861年に火災に遭い、その後は妻・貞の養蚕や織物によって支えられていた[32]。青年期に藤森弘庵の私塾で学んで勤王思想を持っていた行正は、1868年に板垣退助の軍が甲府で討幕軍への志願者を募った際に従軍し、土佐藩の遊撃部隊断金隊(武田家家臣の子孫を中心とした部隊)に参加して活躍、のちに二代目隊長を務め、戊辰戦争後も土佐藩士と称した[30][32]。明治維新後は安岡良亮の配下として弾正台の役人となり、安岡の転任に従って高崎県(現・群馬県)、渡会県(現・三重県)、熊本県と転々として、安岡が殺された神風連の乱では行正も九死に一生を得る思いをした[33]。その後は退官して渡会県山田(現・宇治山田市)で隠棲した[33]。落合直亮とは親友であり親戚[34]。
- 弟の尾崎行隆(1865-1942年)は兄同様慶應義塾に学び、1888年(明治21年)1月31日、東京退去を命じられた行雄とともに横浜港から渡米。帰国せず、文士を志したが劇団に入り、俳優ウィリアム・ジレットのハウスボートの乗務員として雇われたのをきっかけにジレットの執事として40年間仕え、生涯を米国で過ごした。原田助とは熊本洋学校の同級生[35]。
- 前妻は繁子。旧姓・田中。長崎市の田中藻兵衛の娘[36]。家庭を顧みない行雄を支え、貧困生活のなか肺病を患い、病没した。
- 後妻は英子セオドラ尾崎(1870年生。男爵尾崎三良の娘)。先妻の繁子が亡くなった翌年の1905年に結婚。
- 長男・尾崎行至(夭折)
- 次男・尾崎彦麿。その長男は尾崎行信、娘の菊子はそごう社長坂内義雄の長男・坂内虎雄の妻[37]。
- 三男・尾崎行衛(1885年生)
- 四男の尾崎行輝(1888年生)は、参議院議員を1期(1947年 - 1953年)務めると共に日本航空役員を歴任し、前後して行われた1953年の総選挙では父・行雄が落選したことから親子揃っての落選と話題になった。その後、父の地盤を継いで1955年の総選挙にも出馬したが、落選に終わっている。
- 長女の佐々木清香(1891年生)は、実業家・衆議院議員の佐々木久二と結婚した[38]。
- 次女は品江(1906年生)。
- 難民を助ける会創立者の相馬雪香(1912年生)は、英国育ちの妻テオドラとの間に生まれた三女で、相馬氏第32代当主・相馬恵胤の妻。キリスト教的運動である道徳再武装をもとにしたイニシアティブス・オブ・チェンジの名誉会長でもある[39]。
- 孫(次男の子)の尾崎行信は弁護士から最高裁判所裁判官を務めた。
- 孫(四男の子)の尾崎行良はパイロット[要曖昧さ回避]。妻は伏見宮博恭王の孫の尾崎光子。
旧尾崎行雄邸
尾崎が英子のために東京市長時代の1907年に麻布に建て、その後知人の英文学者が譲り受けて1933年に世田谷区豪徳寺2丁目に移築[40]した木造2階建ての洋館が現存する。2020年6月にその解体予定が明らかになると、漫画家の山下和美らが「旧尾崎行雄邸保存プロジェクト」を立ち上げ、所有者である住宅会社へ保存請願の署名を提出した。世田谷区による内部の調査などを経て、漫画家の笹生那実・新田たつお夫妻が資金協力を申し出たことで購入に成功。老朽化や内部の傷みが進んでいるため、今後はクラウドファンディングなどで資金を集めて耐震改修工事を施す予定[41]。
注釈
- ^ 戸籍上は翌6年の旧暦11月20日
- ^ 1870年(明治3年)までは津久井県と称し、同年に津久井郡と改称した。
- ^ なお、1888年(明治21年)7月、滞在先のロンドンで、ドイツ留学を終えて帰国の途についていた森鴎外と会っており、鴎外から詩を4首贈られた。山﨑(2007)。
- ^ 尾崎は、「仮に日本に共和政治があったという夢を見たと仮定せられよ、恐らく三井・三菱が大統領の候補となるだろう」と述べた。これは、当時の国政における金権体質に対する批判を真意としたものであったが、枢密院や貴族院などを中心に反発の声が高かった。
- ^ 『牧野伸顕日記』1931年(昭和6年)2月17日条によると、内大臣牧野伸顕(大久保利通の息子)が尾崎と会ったときにその口から「我々は青年時代に薩長政府を悪み英国流の議会政治に如くものはなしと思込、多年奮闘し来りたるが、事志と違ひ今日の現状に直面して慙愧に堪へず抔、薩長政府は国家を念頭に置き働きたるが、今日は議会抔に国家を思ふもの一人もなし」という言葉を聞いて深刻に受け止めた事を書き記している。この時期の尾崎の失意の心情をうかがわせる。
出典
- ^ 大植 1935, 782頁.
- ^ 尾崎行雄とは(年譜) - NPO法人咢堂香風ホームページ 2010年10月15日閲覧。
- ^ 合格神社
- ^ 童子寮とも。12-16歳の塾生ないし生徒を預かる寄宿舎。童子寮ないし童子局よりも年少の子供たちを任せる機関として明治7年に設けられたのが、慶應義塾幼稚舎の前身になる慶應構内にあった和田塾になる(幼稚舎の歴史 慶應義塾幼稚舎、No.15 塾監局 慶應義塾豆百科)。
- ^ 守部喜雅『聖書を読んだサムライたち』(いのちのことば社、2010年)141頁
- ^ 慶應義塾の伝統②憲政の神様尾崎行雄
- ^ 新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第6巻』(林泉社、1940年)pp.551-553
- ^ a b c 伊藤之雄 & 2019上, p. 504.
- ^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 473.
- ^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 503-504.
- ^ 「尾崎市長の結婚式 名誉なり矣 英国水兵の儀仗付き」(新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第12卷』(林泉社、1936年)pp.503-504)
- ^ a b c 佐藤大祐・斎藤功「明治・大正期の軽井沢における高原避暑地の形成と別荘所有者の変遷」(歴史地理学 46-3(219)1-20 2004.6)11頁
- ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、11頁。ISBN 9784309225043。
- ^ 【TBSスパークル】1954年10月06日 憲政の神様 尾崎咢堂死す(昭和29年) TBSスパークル映像ライブラリー
- ^ 正宗白鳥『軽井沢にて』(「旅人の心」1942年3月)。青空文庫リンク(底本:正宗白鳥「世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集」(平凡社, 1963年))
- ^ “桜の木を贈った「憲政の神様」”軽井沢ウェブ(2016年5月16日, 軽井沢新聞社)
- ^ a b 上田博『尾崎行雄:「議会の父」と与謝野晶子』(三一書房, 1998年)12頁, 36頁
- ^ 花里俊廣「戦争中の軽井沢の外国人別荘の変遷とコミュニティとの関係」(日本建築学会系論文集 第85巻 770号, 2020年)960頁
- ^ 宮原安春『軽井沢物語』(講談社, 1991年)
- ^ 木村勝美『子爵夫人鳥尾鶴代 GHQを動かした女』(立風書房, 1992年)11頁
- ^ “米国から贈られた「ハナミズキ」100年祭、日米親善のもう1つの‟絆””. nippon.com. 2019年7月7日閲覧。
- ^ 伊藤之雄 & 2019上, p. 369.
- ^ 「ワシントンで余生」『日本経済新聞』昭和25年6月10日3面
- ^ 『官報』第4504号「叙任及辞令」1898年7月6日。
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
- ^ 『官報』第6819号「叙任及辞令」1906年3月27日。
- ^ a b 『土佐百年史話: 民権運動への道』平尾道雄、浪速社, 1968、p97
- ^ 市民協働による尾崎咢堂関係資料の整理・活用について木村弘樹、尾崎行雄を全国に発信する会、相模原市立博物館研究報告(27):40〜45,Mar.31.2019
- ^ a b 尾崎咢堂(行雄)の父・行正が尾崎家に婿入りしてからの生活について知りたい。レファレンス協同データペース、2016年02月27日
- ^ a b 『咢堂自伝』尾崎行雄、1937年、p8
- ^ 『咢堂自伝』尾崎行雄、1937年、p5
- ^ 原田健『原田助遺集』(1971年)p77
- ^ 『咢堂自伝』尾崎行雄、1937年、p260
- ^ 与謝野馨近現代系図ワールド
- ^ 人事興信所編『人事興信録』第14版 上(1943年)オ55頁
- ^ IC役員名簿
- ^ Setagaya100 2020, p. 265.
- ^ 「憲政の神様」の洋館 残った/東京・世田谷 旧尾崎行雄邸/人気漫画家ら資金提供 買い取り成功『毎日新聞』朝刊2020年12月6日(社会面)2020年12月8日閲覧
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