上杉謙信
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系譜
上杉氏の下で越後国の守護代を務めた長尾氏。主君・上杉定実から見て「正妻の甥」かつ「娘婿の弟」にあたる。上杉重房を初代として16代の世系ともいわれる。5代前の景房は上杉中務大輔の娘を正室にしており、その子・頼景以降、守護代となっている。
- 父母
- 兄弟
- 姉妹
- 養子
- 養女
- 猶子
家臣
越後国人衆
五十音順
他国衆
上杉一門衆
- 越後守護家由来
- 長尾一門など
上杉二十五将
上杉謙信に仕えた武将のうち、特に評価の高い25名を選出したもの。寛文9年(1669年)、江戸幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されている。
生没年 | 出自 | 死因 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
長尾越前守政景 | 1526年 - 1564年 | 上田長尾家 | 溺死 | 上杉景勝の実父 |
宇佐美駿河守定行(定満) | 1489年? - 1564年? | 宇佐美氏 | 溺死? | |
新津丹後守義門(勝資) | 生年不詳 - 1600年 | 金津氏 | 戦死 | 揚北衆 |
金津新兵衛義旧 | 生没年未詳 | 金津氏 | 未詳 | |
北条丹後守長国(景広) | 1548年 - 1579年 | 毛利氏 | 戦死(御館の乱) | |
本庄美作守慶秀(実乃) | 1511年? - 1575年? | 本庄氏 | 病死? | |
本庄弥次郎繁長 | 1540年 - 1614年 | 本庄氏 | 病死 | 揚北衆 |
色部修理亮長実 | 1553年 - 1592年 | 色部氏 | 病死 | 揚北衆 |
甘糟備後守清長(景継) | 1550年 - 1611年 | 登坂氏 | 病死 | 上田衆 |
杉原常陸介親憲 | 1546年 - 1616年 | 大関氏 | 病死 | 揚北衆 |
斎藤下野守朝信 | 1527年? - 1592年? | 斎藤氏 | 病死 | |
安田上総介順易(能元) | 1557年 - 1622年 | 毛利氏 | 病死 | |
高梨源三郎頼包 | 生没年未詳 | 高梨氏 | 未詳 | 信濃衆 |
柿崎和泉守景家 | 1513年? - 1574年 | 柿崎氏 | 病死 | |
千坂対馬守清胤(景親) | 1536年 - 1606年 | 千坂氏 | 病死 | |
直江大和守実綱(景綱) | 1509年? - 1577年 | 直江氏 | 病死 | |
竹股三河守頼綱(慶綱) | 1524年 - 1582年 | 竹俣氏 | 戦死(魚津城の戦い) | 揚北衆 |
岩井備中守経俊(信能) | 1553年 - 1620年 | 岩井氏 | 病死 | 信濃衆 |
中条越前守藤資 | 生年不詳 - 1568年 | 中条氏 | 病死 | 揚北衆 |
山本寺勝蔵孝長(景長) | 生年不詳 - 1582年 | 山本寺氏 | 戦死(魚津城の戦い) | |
長尾権四郎景秋 | 生没年未詳 | 白井長尾家 | 未詳 | |
吉江中務丞定仲(忠景) | 生没年未詳 | 吉江氏 | 未詳 | |
志田修理亮義分(義秀) | 1560年 - 1632年 | 志駄氏 | 病死 | 与板衆 |
大国修理亮頼久 | 生没年未詳 | 小国氏 | 未詳 | |
加地安芸守春綱 | 生没年未詳 | 加地氏 | 未詳 |
上杉四天王
『上杉将士書上』[信頼性要検証]を出典。また、『甲越信戦録』(著者不明、江戸時代末期の軍記物)では景綱は直江兼続に換えて表記。
忍者
墓所・霊廟
謙信の遺骸は甲冑を着せて甕に納め、葬られたといわれる。この遺骸は当初春日山城内の不識院に埋葬され、林泉寺に供養塔が建立された[66]。通説では長尾上杉家の転封に伴って、若松城、ついで米沢城内に改葬されたとされる。明治維新後は米沢藩歴代藩主が眠る上杉家廟所(山形県米沢市)に再度、改葬された。春日山林泉寺(新潟県上越市)と岩殿山明静院(新潟県上越市)と高野山と栃尾美術館の前庭(新潟県長岡市)にも供養塔が残されている。
また、江戸時代の米沢藩では謙信は藩祖として崇敬を集めた。明治5年(1872年)に米沢城本丸跡に創建された上杉神社(別格官幣社)に上杉鷹山と共に祀られ、明治35年に別格官幣社に昇格し、神体は謙信一柱となった(なお上杉鷹山は、松岬神社にて上杉景勝、直江兼続らと共に祀られるようになった)。明治41年(1908年)9月9日には、従二位が贈られた[56]。
なお、直江兼続は上杉遺民一揆の際に越後国内の旧臣らを扇動する際、「上杉謙信公の墓を守れ」という檄文を使ったとされている。
注釈
- ^ 『歴名土代』に見えず。
- ^ 文書上でのやりとりのみ。
- ^ 江戸時代後期の白河藩士・広瀬蒙斎による『白河風土記』は「
依怙 ()によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方 ()へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)と評している。今川家や北条家から塩を禁輸された武田信玄に塩を送ったとされる「敵に塩を送る」の故事も有名であるが、同時代の史料では確認できず、後世創作された可能性が高い。 - ^ a b 山田邦明、萩原大輔など[3]
- ^ 謙信の父・長尾為景が憲政の義理の祖父である関東管領上杉顕定を滅ぼした長森原の戦い以来、山内上杉家と長尾氏の関係は断絶していたが、天文17年(1548年)頃から、上杉憲政と長尾晴景の間で関係修復が行われ始めていた[16]。
- ^ 叙任の月日は、上杉家御年譜一・謙信公では4月23日[17]、上杉家文書・上越七三では5月26日(大覚寺義俊の斡旋による)としている。なお、歴名土代には記載なし。
- ^ なお、『歴代古案』所載の景虎遺言では比叡山に隠棲したとしている。
- ^ かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが、『関八州古戦録』以外に出典がなく、現在では否定的意見が有力である[25][26]。
- ^ 『その時歴史が動いた』(NHK、2007年4月4日放送。『NHKその時歴史が動いた傑作DVDマガジン戦国時代編 Vol.9 上杉謙信』〈講談社MOOK〉2012年1月。)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とされた。
- ^ 『上杉輝虎書状案』によると、1564年10月1日に謙信自ら普請の完了を確認している。
- ^ 栗岩英冶、桑田忠親、井上鋭夫、花ヶ前盛明など多くの研究者が著書で指摘している。
- ^ 風湿(痛風やリウマチに相当する漢方医学の語)。風毒ともいう。
- ^ 将軍・義輝は病気見舞いとして大舘左衛門佐輝氏を坂本の陣所へ遣わし、同日、鉄砲火薬の調合書(『鉄放薬之方并調合次第』)一巻を謙信に贈った。
- ^ 近衛前久からの慰問の書状がある(「ふくちういかゝ候や、これのみあんじ申候。うけたまはりたく候。猶ゆたんなく、御屋うじやうかんよふにて候」6月10日付[46])。
- ^ 雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳卒中だと考えられる一因である。
- ^ 松隣夜話』の記述を基に、王丸勇が著書『英雄医談―病跡学こぼれ話』で推測した[48]。
- ^ 池田嘉一は著書『史伝上杉謙信』において、北越軍記の史料価値の否定とともに謀殺説を批判した[44]が、没地について論拠を求めた布施秀治の『上杉謙信傳』では、『謙信公御年譜』に記された永禄4年7月5日の死亡は明らかな誤りと著されている[41]。これは、永禄7年3月までの政景の文書が存在しているからであり、この点に関してだけは『北越軍記』の同年7月5日死亡が正しいものとしている。何れにせよ記録が錯綜しているため、どの説についても確証は得られない。
- ^ 長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した[51]。
- ^ 『関八州古戦録』では主従45騎、『常山紀談』では13騎、『名将言行録』だと23騎率いると記されていた。
- ^ 謙信は仏教を信仰していたが、信仰していたのは一向宗(浄土真宗)ではなく真言宗である。
- ^ 一文字派は長船の刀工である。
出典
- ^ 系図纂要、大日本史料、上杉三代日記、北越軍談より。
- ^ 上杉謙信書翰
- ^ 「義の武将」謙信 実像に迫る/新史料や分析 過度な美化見直しも『読売新聞』朝刊2020年11月4日(文化面)
- ^ 小野榮 2006.
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- ^ 花ヶ前 1991, p. 9.
- ^ a b c d 小野榮 2006, p. 64.
- ^ 黒田基樹 著「総論 長尾為景の研究」、黒田基樹 編『長尾為景』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三四巻〉、2023年、ISBN 978-4-86403-464-7、14–16・22–26頁。
- ^ a b 花ヶ前 1991, p. 10.
- ^ a b 布施 1917, p. 4.
- ^ 布施 1917, p. 3.
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- ^ 池 & 矢田 2007, p. 81.
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- ^ 天野忠幸『三好一族と織田信長』(戎光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-185-1、29–33頁。
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- ^ 小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡 下巻』〈ふるさと文庫―茨城〉1979年3月、56-65頁 。
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- ^ 『静岡県史』資料編7、3491-3494号
- ^ 長塚孝「北条氏秀と上杉景虎」『戦国史研究』12号、1986年。
- ^ 黒田基樹の論文[要文献特定詳細情報]、など
- ^ 谷口克広『信長と将軍義昭―提携から追放、包囲網へ―』(中央公論新社、 2014年)p117
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- ^ a b c d 小野榮 2006, p. 62.
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- ^ 『能登国司畠山殿伝記』など。
- ^ 『古老物語』[信頼性要検証]
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- ^ 市村高男『東国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。
- ^ 笹本正治監修『川中島合戦再考』新人物往来社、2000年。[要ページ番号]
- ^ 別冊太陽『戦国大名』平凡社、2009年刊他
- ^ 『甲陽軍鑑』巻十三(品第39)
- ^ 笹本正治 2005, p. 78.
- ^ “林泉寺”. 公益社団法人 新潟県観光協会. 2022年12月14日閲覧。
- ^ “上越市、「謙信の愛刀」の購入断念 金額で所有者と折り合いつかず”. 新潟日報. (2017年11月19日) 2017年11月22日閲覧。
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- ^ “国宝「太刀 無銘 一文字(山鳥毛)」について - 瀬戸内市公式ホームページ”. www.city.setouchi.lg.jp. 2023年3月16日閲覧。
- ^ 「上杉神社 稽照殿」(山形県米沢市)所蔵保管。
- ^ a b c 長谷川伸「上杉謙信の虚像 ─上杉謙信画像と要門派越後流軍学の展開─」『新潟県立歴史博物館研究紀要』第5号、2004年3月、107-125頁。
- ^ a b c d e f g h i “上越市内各所の上杉謙信像11体を紹介 春日山神社には新たな銅像がお目見え”. 上越タウンジャーナル. 2023年5月10日閲覧。
- ^ “天と地と”. 日本放送協会. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月3日閲覧。
- ^ ““Gackt謙信”写真集発売、NHK大河ドラマでは史上初”. ORICON STYLE:eltha. 2016年4月6日閲覧。
- ^ “GACKT謙信今年も出陣 「今年で一区切り」第90回謙信公祭”. 上越タウンジャーナル. 2017年9月26日閲覧。
- ^ “謙信公祭”. 上越タウンジャーナル. 2015年6月16日閲覧。[リンク切れ]
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