リチャード・ポンソンビー=フェイン リチャード・ポンソンビー=フェインの概要

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リチャード・ポンソンビー=フェイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 04:43 UTC 版)

リチャード・ポンソンビー=フェイン
1927年(昭和2年)、京都下総町の自宅にて
人物情報
全名 リチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー=フェイン
別名 本尊美利茶道
生誕 リチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー
(1878-01-08) 1878年1月8日
イギリス
イングランドロンドン
死没 (1937-12-10) 1937年12月10日(59歳没)
日本京都市
居住 イギリス 日本
国籍 イギリス
出身校 ハーロー校
学問
研究分野 神道学日本史学
学位 名誉法学博士(香港大学
学会 明治聖徳記念学会
主な受賞歴 勲四等瑞宝章
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生涯

出自と家族

ブリンプトン邸。イングランド南西部サマセット州

1878年ロンドンのイートンテラスに生まれた。父ジョン・ヘンリーは、第4代ベスバラ伯爵ジョン・ウィリアム・ポンソンビーの六男サー・スペンサー・セシル・ブラバゾン・ポンソンビー=フェイン英語版の長男である。母フロレンスは、第2代ファーカー準男爵サー・トマス・ファーカーの次男ハーヴィー・ファーカーの長女である[1][2]

リチャードは姉ヴァイオレットとの二人姉弟で、所有したブリンプトン邸英語版はのちに、姉とエドワード・クライヴとの間の子(リチャードにとっては甥)であるニコラス・ブラバゾン・クライヴ=ポンソンビー=フェインに相続させている。リチャード自身は生涯独身であった[1]

ポンソンビー=フェインの姓

祖父サー・スペンサーの母(リチャードの曾祖母)は、第10代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインの娘レディ・マリアであるが、ジョン・フェインは、マリアの異母妹で独身だったレディ・ジョージアナにブリンプトン邸を遺し、ジョージアナはこれを甥であるスペンサーに遺贈した。この相続ののちスペンサーは、「=フェイン (-Fane)」の姓とフェイン家の紋章を加えることになった。リチャードは、祖父サー・スペンサーと父ジョンが相次いで死去した1916年に、相続者として姓に「=フェイン」を加えている[1]

日本居住以前

香港総督秘書時代のリチャード。

1887年プレパラトリー・スクールであるサニングデール校英語版に入学、1891年にはハーロー校に進学した。在学中はクリケットに熱中する(祖父サー・スペンサーはクリケット選手として著名であった)が、病弱のため1894年に退学を余儀なくされた。退学後、療養を兼ねてオーストラリアカンヌマデイラ諸島カナリア諸島を旅行する。以後リチャードは生涯にわたって船旅を好むことになる[1]

1896年ナタール植民地総督秘書として赴任、1898年トリニダード島1900年にはセイロンに転じ、いずれもイギリスの植民地総督の秘書を務めた。1901年、保養のため香港および日本を訪問。これが初来日となった[1]

1903年香港総督秘書となり、日本郵船香港支店の三原繁吉から日本語を習い始める。1907年に再びナタール、1911年フィジーの総督秘書となるが、その間にも避暑や、休暇による帰国の途次などに何度か日本を訪れている[1]

1915年に再び香港総督秘書となり、毎年12月から翌年3月までは香港大学英語歴史講師を無給で務めるようになった(これは日本移住後の1927年(昭和2年)まで続けている)。また同年には、日本に関する最初の著書『日本皇室譜』(The Imperial Family of Japan)を刊行した。この香港在任中にもたびたび来日し、大学での日本人の教え子らを案内役として、神社・陵墓・史跡などをめぐっている[1]

1916年1月に祖父サー・スペンサーが死去し、9月には父ジョンも死去した。リチャードはブリンプトン邸を相続し、姓に「=フェイン」を加えた[1]

1919年7月に香港での職を辞して来日し、東京市本郷区駒込神明町(現在の東京都文京区本駒込)に居を定めた[1]

日本居住以後

1934年(昭和9年)4月1日、日吉大社にて小学生の舞姫とともに。
亡くなる直前の頃

1919年大正8年)秋に東京に移り住むと、研究のかたわら成蹊学園で英語教師を無給で務めている[1]

1921年(大正10年)3月皇太子裕仁親王が訪欧の途上香港を訪問した際には、香港に滞在していたリチャードが香港総督レジナルド・スタッブス英語版通訳を務めた。この時裕仁親王が、東北訛りで有名だった供奉長の珍田捨巳伯爵を引き合いに「あなたの日本語は珍田より上手ですね」と語りかけたという。この通訳の功により、同年勲四等瑞宝章を受章[1]

1923年(大正12年)の関東大震災で神明町の居宅が被害を受けたため、翌年、東京府滝野川町(現在の東京都北区南部)に移るが、1925年(大正14年)には京都市上京区(現在は北区)小山下総町に転居した。京都府立第一中学校での無給の英語教師も始める[1]

1926年(大正15年)に香港大学より法学博士名誉学位を授与されている[1]

1928年(昭和3年)11月昭和天皇即位大典の折には、民間の外国人として唯一人、京都御所建礼門での列立奉拝に加わることを許された[1]

1929年(昭和4年)に京都市上京区(現在は北区)上賀茂南大路町に自宅を新築し移り住んだが、のち1934年(昭和9年)にも同じ南大路町内に自宅を新築し転居している[1][3]

1937年(昭和12年)12月10日胃潰瘍のため上賀茂南大路町の自宅にて死去。享年60(満59歳)[1]12月15日日本聖公会聖アグネス教会告別式が行われ、同日荼毘に付された。遺骨は、翌年来日した姉ヴァイオレットが携えて帰英し、ブリンプトン邸内の歴代墓所に葬られた[4][5]

研究

当時公的に唱えられていた「神道非宗教説」に対し、「神道宗教である」との立場をとった[6]

神道の特徴として、寛容性に富み、外国のような宗教上の迫害がなかったこと、潔白性・清浄性を尊ぶこと、国家と宗教とが同一であり、天皇がその最高の祭司であること等を指摘し、個別の神社についての詳細な調査を通じて、国民的原始宗教としての神道が、どのような歴史的・政治的影響を受けてきたかを観察することに努めた[6]

古事記』『日本書紀』『古語拾遺』のうち、歴史書である記紀とは違って、時代は下がるものの神道思想が反映され、宗教としての信仰形態がみられるとして、『古語拾遺』を重視した[6]

荒魂」について、国土の平定や開発などの慈善的・建設的行為は、それに関係した神々の荒魂の作用であったとし、罪を犯したり破壊的であったりするだけではない、活動的な神魂であると評価した[6]


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 尾野稔「本尊美利茶道翁略伝」『本尊美翁追憶録』1938
  2. ^ Florence FarquharGeni
  3. ^ 北尾年弘「上賀茂本邸新築に就て」『本尊美翁追憶録』1938
  4. ^ 佐藤芳二郎「本尊美翁年譜」『本尊美翁追憶録』1938
  5. ^ 佐藤芳二郎「臨終前後の記」『本尊美翁追憶録』1938
  6. ^ a b c d 照沼好文「ポンソンビ博士の神道研究-とくに御神魂の理解について」『明治聖徳記念学会紀要』復刊第44号、2007
  7. ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「君と臣」1920、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
  8. ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「デモクラシィの誤謬」1926、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
  9. ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「昭和御大典印象記」1929、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
  10. ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「二重生活の廃止」1931、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
  11. ^ 安島八郎「本尊美翁の日支事変観」『本尊美翁追憶録』1938
  12. ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「日本の教育制度」1932、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
  13. ^ a b c d e f g 佐藤芳二郎「本尊美先生の日常生活」『ポンソンビ博士の真面目』1961
  14. ^ a b c d 新木直人・阪本是丸「碧い眼の神道学者・ポンソンビ博士」『神社新報』2017
  15. ^ a b 大谷登「本尊美翁を憶ふ」『本尊美翁追憶録』1938
  16. ^ 『本尊美翁追憶録』1938
  17. ^ 『ポンソンビ博士の真面目』1961


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