リチャード・ポンソンビー=フェイン
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1927年(昭和2年)、京都下総町の自宅にて | |
人物情報 | |
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全名 | リチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー=フェイン |
別名 | 本尊美利茶道 |
生誕 |
リチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー 1878年1月8日 イギリス イングランド、ロンドン |
死没 |
1937年12月10日(59歳没) 日本、京都市 |
居住 | イギリス、 日本 |
国籍 | イギリス |
出身校 | ハーロー校 |
学問 | |
研究分野 | 神道学、日本史学 |
学位 | 名誉法学博士(香港大学) |
学会 | 明治聖徳記念学会 |
主な受賞歴 | 勲四等瑞宝章 |
生涯
出自と家族
1878年、ロンドンのイートンテラスに生まれた。父ジョン・ヘンリーは、第4代ベスバラ伯爵ジョン・ウィリアム・ポンソンビーの六男サー・スペンサー・セシル・ブラバゾン・ポンソンビー=フェインの長男である。母フロレンスは、第2代ファーカー準男爵サー・トマス・ファーカーの次男ハーヴィー・ファーカーの長女である[1][2]。
リチャードは姉ヴァイオレットとの二人姉弟で、所有したブリンプトン邸はのちに、姉とエドワード・クライヴとの間の子(リチャードにとっては甥)であるニコラス・ブラバゾン・クライヴ=ポンソンビー=フェインに相続させている。リチャード自身は生涯独身であった[1]。
ポンソンビー=フェインの姓
祖父サー・スペンサーの母(リチャードの曾祖母)は、第10代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインの娘レディ・マリアであるが、ジョン・フェインは、マリアの異母妹で独身だったレディ・ジョージアナにブリンプトン邸を遺し、ジョージアナはこれを甥であるスペンサーに遺贈した。この相続ののちスペンサーは、「=フェイン (-Fane)」の姓とフェイン家の紋章を加えることになった。リチャードは、祖父サー・スペンサーと父ジョンが相次いで死去した1916年に、相続者として姓に「=フェイン」を加えている[1]。
日本居住以前
1887年にプレパラトリー・スクールであるサニングデール校に入学、1891年にはハーロー校に進学した。在学中はクリケットに熱中する(祖父サー・スペンサーはクリケット選手として著名であった)が、病弱のため1894年に退学を余儀なくされた。退学後、療養を兼ねてオーストラリア、カンヌ、マデイラ諸島、カナリア諸島を旅行する。以後リチャードは生涯にわたって船旅を好むことになる[1]。
1896年にナタール植民地に総督秘書として赴任、1898年にトリニダード島、1900年にはセイロンに転じ、いずれもイギリスの植民地総督の秘書を務めた。1901年、保養のため香港および日本を訪問。これが初来日となった[1]。
1903年に香港総督秘書となり、日本郵船香港支店の三原繁吉から日本語を習い始める。1907年に再びナタール、1911年にフィジーの総督秘書となるが、その間にも避暑や、休暇による帰国の途次などに何度か日本を訪れている[1]。
1915年に再び香港総督秘書となり、毎年12月から翌年3月までは香港大学で英語と歴史の講師を無給で務めるようになった(これは日本移住後の1927年(昭和2年)まで続けている)。また同年には、日本に関する最初の著書『日本皇室譜』(The Imperial Family of Japan)を刊行した。この香港在任中にもたびたび来日し、大学での日本人の教え子らを案内役として、神社・陵墓・史跡などをめぐっている[1]。
1916年1月に祖父サー・スペンサーが死去し、9月には父ジョンも死去した。リチャードはブリンプトン邸を相続し、姓に「=フェイン」を加えた[1]。
1919年7月に香港での職を辞して来日し、東京市本郷区駒込神明町(現在の東京都文京区本駒込)に居を定めた[1]。
日本居住以後
1919年(大正8年)秋に東京に移り住むと、研究のかたわら成蹊学園で英語教師を無給で務めている[1]。
1921年(大正10年)3月、皇太子裕仁親王が訪欧の途上香港を訪問した際には、香港に滞在していたリチャードが香港総督レジナルド・スタッブスの通訳を務めた。この時裕仁親王が、東北訛りで有名だった供奉長の珍田捨巳伯爵を引き合いに「あなたの日本語は珍田より上手ですね」と語りかけたという。この通訳の功により、同年勲四等瑞宝章を受章[1]。
1923年(大正12年)の関東大震災で神明町の居宅が被害を受けたため、翌年、東京府滝野川町(現在の東京都北区南部)に移るが、1925年(大正14年)には京都市上京区(現在は北区)小山下総町に転居した。京都府立第一中学校での無給の英語教師も始める[1]。
1926年(大正15年)に香港大学より法学博士の名誉学位を授与されている[1]。
1928年(昭和3年)11月の昭和天皇即位大典の折には、民間の外国人として唯一人、京都御所建礼門での列立奉拝に加わることを許された[1]。
1929年(昭和4年)に京都市上京区(現在は北区)上賀茂南大路町に自宅を新築し移り住んだが、のち1934年(昭和9年)にも同じ南大路町内に自宅を新築し転居している[1][3]。
1937年(昭和12年)12月10日、胃潰瘍のため上賀茂南大路町の自宅にて死去。享年60(満59歳)[1]。12月15日に日本聖公会聖アグネス教会で告別式が行われ、同日荼毘に付された。遺骨は、翌年来日した姉ヴァイオレットが携えて帰英し、ブリンプトン邸内の歴代墓所に葬られた[4][5]。
研究
当時公的に唱えられていた「神道非宗教説」に対し、「神道は宗教である」との立場をとった[6]。
神道の特徴として、寛容性に富み、外国のような宗教上の迫害がなかったこと、潔白性・清浄性を尊ぶこと、国家と宗教とが同一であり、天皇がその最高の祭司であること等を指摘し、個別の神社についての詳細な調査を通じて、国民的原始宗教としての神道が、どのような歴史的・政治的影響を受けてきたかを観察することに努めた[6]。
『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』のうち、歴史書である記紀とは違って、時代は下がるものの神道思想が反映され、宗教としての信仰形態がみられるとして、『古語拾遺』を重視した[6]。
「荒魂」について、国土の平定や開発などの慈善的・建設的行為は、それに関係した神々の荒魂の作用であったとし、罪を犯したり破壊的であったりするだけではない、活動的な神魂であると評価した[6]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 尾野稔「本尊美利茶道翁略伝」『本尊美翁追憶録』1938
- ^ Florence FarquharGeni
- ^ 北尾年弘「上賀茂本邸新築に就て」『本尊美翁追憶録』1938
- ^ 佐藤芳二郎「本尊美翁年譜」『本尊美翁追憶録』1938
- ^ 佐藤芳二郎「臨終前後の記」『本尊美翁追憶録』1938
- ^ a b c d 照沼好文「ポンソンビ博士の神道研究-とくに御神魂の理解について」『明治聖徳記念学会紀要』復刊第44号、2007
- ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「君と臣」1920、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
- ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「デモクラシィの誤謬」1926、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
- ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「昭和御大典印象記」1929、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
- ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「二重生活の廃止」1931、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
- ^ 安島八郎「本尊美翁の日支事変観」『本尊美翁追憶録』1938
- ^ リチャード・ポンソンビー=フェイン「日本の教育制度」1932、『ポンソンビ博士の真面目』1961所収
- ^ a b c d e f g 佐藤芳二郎「本尊美先生の日常生活」『ポンソンビ博士の真面目』1961
- ^ a b c d 新木直人・阪本是丸「碧い眼の神道学者・ポンソンビ博士」『神社新報』2017
- ^ a b 大谷登「本尊美翁を憶ふ」『本尊美翁追憶録』1938
- ^ 『本尊美翁追憶録』1938
- ^ 『ポンソンビ博士の真面目』1961
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