技師としてとは? わかりやすく解説

技師として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/04 11:15 UTC 版)

山崎久太郎」の記事における「技師として」の解説

1864年元治元年12月肥前国現佐賀県唐津藩藩士山崎庄蔵長男として誕生。父庄蔵御徒目付8石3人扶持であったが、明治維新後は藩制制定廃藩置県経て監察小属を命じられた。 1887年明治20年9月蔵前職工学校(現東京工業大学)(機械工芸部機械科)を第2期生として卒業当時職工技師の意。10月帝国大学工科大学(現東京大学工学部)雇機械工学教室詰、真野文二教授師事1890年明治23年)に技手1893年明治26年8月航路標識監理所(技手)を経て日本銀行建築所(技手勤務となる。親戚筋の同郷唐津出身辰野金吾勧められ建設計画中同行本館建築従事した辰野帝国大学教授日本銀行本館旧本館として現存)の設計監督者日本銀行本館1896年明治29年2月竣工1894年明治27年7月日清戦争勃発1896年明治29年3月日清戦争戦勝気分国民意識高揚している中、帝国議会により製鉄所官制公布された。政府ドイツ最大銑鋼一貫生産のグーテホフヌング製鉄所(GHH、ルール地方工業都市オーバーハウゼン所在)を範にとってその技術体系官営八幡製鉄所移転する計画であった官営製鉄所創設立役者松方正義農商務大臣榎本武揚と言われている。和田維四郎(後に長官)や大島道太郎技監)、小花冬吉(銑鉄部長)らの幹部任命された。山崎製鉄所工務部(技手勤務となった1897年明治30年3月農商務省より製鉄所建設必要な製鉄技術習得のため総勢10名の技術者選ばれ山崎その内青年6名の一人としてドイツへ長期派遣を命ぜられた。当時ヨーロッパ産業革命後隆盛期で、先端技術従来時代から鉄道車輪大砲などの武器などをつくる鋳鋼時代移行しつつあった。山崎政府から与えられ研究テーマ製鉄ロール技術であったが、山崎最先端鋳鋼発展いち早く着目した山崎は同じ蔵前職工学校出身3年後輩の羽室庸之助とともにもっぱら鋳鋼製鋼技術習得することを誓い合った両名大胆にも所命の研究そこそこにオーバーハウゼン隣接中核工業都市エッセンにあるクルップ社などで最新鋳鋼研究専念した当時良質な鋼を得るための製鋼法としては平炉主流であったこの頃日本は鋼を主にヨーロッパからの輸入頼っており、戦時には輸入途絶える恐れがあった。 1899年明治32年)、山崎2年間の技術習得期間が終了し羽室とともにベルギーアントワープ港から日本郵船常陸丸帰国の途についた。この時、両名安宿滞在費を切り詰めながら現地で買い集めた鋳鋼製造大型機械設備を船に積み込み自分たちは船賃の最も安いデッキパッセンジャー(steerage)に混じり60日間甲板上での生活を始めた日本に帰国後現地鋳鋼研究をした事情上司詳しく述べ農商務大臣引き続き鋳鋼製造試験従事したい嘆願したしかしながら両名願い聞き入れられ休職命じられた。切羽詰まった山崎は羽室と共に蔵前職工学校時代恩師平賀義美訪ね窮状打ち明け自分思い話した山崎平賀から鋳鋼製造将来性習得した技術・知に関する良き理解強力な支持とりつけ、話は一時住友家による鋳鋼会社設立まで大きく発展した平賀大阪商品陳列所長(後に大阪織物会社を創業日本初工学博士)で住友家嘱託もしており、住友家から厚い信頼得ていた。 1899年明治32年9月平賀尽力斡旋により河上謹一住友理事)、片岡尚輝、浅三郎らから3万円余の出資得て短期間のうちに日本鋳鋼合資会社設立された。浅三郎日本最初特許事務所である浅村内特許事務所創設者蔵前職工学校機械工芸部の一年先輩第1回卒業生山崎は羽室とともに河上謹一新会社経営陣支援受けて直ち日本鋳鋼所の工場建設着手した工場敷地大阪府西成郡伝法村(現大阪市此花区伝法3丁目、現伝法小学校敷地)で、伝法創業地である鴻池組工場建設所長片岡尚輝、技師長山崎、羽室技師職員8名、工員24名の体制操業開始臨んだ鋳鋼用の小型シーメンス平炉(3半)を1基設置し同時にドーソンガス発生炉1基を備えたこれまで陸軍大阪砲兵工廠海軍工廠外国技術導入し製鋼試みられていたが、すべて失敗終わっていた。 1900年明治33年3月日本鋳鋼所は平炉点火試験行い試運転開始した徹夜連続幾多の困難を乗り越え日本最初民間平炉稼働させた。しかし稼働開始後も技術未熟のため所要とする製品容易にできず、会社大きな損失出した。なお、官営八幡製鉄所高炉稼動したのは翌1901年明治34年2月のことである。 その後日本鋳鋼所の生産体制はほぼ整備されたものの、折から金融恐慌影響受けて経営行き詰まり1901年明治34年6月住友家住友総本店)の住友吉左衛門友純が日本鋳鋼所の事業買収し住友家個人経営による住友鋳鋼場として事業継承された。住友家1897年大阪伸銅場を創設し経営していたものの、鉄鋼業については重要な基礎産業であると認め将来性嘱望していた。日本鋳鋼所の買収により、住友家鉄鋼業第一歩印した。友純は、技師長の山崎久太郎住友鋳鋼場長心得命じ技師羽室庸之助以下20名の職員と160名の工員そのまま引き継いだ1901年明治34年7月山崎住友鋳鋼場長(後に支配人)に就任し工場経営責任者となった彼の下に設計工作会計の3係が設けられた。工場規模操業開始当時と同じ3半平炉1基を根幹とする平炉鋳鋼業の最小単位であったが、その後順次工場機械設備充実図られた。1902年明治35年)、住友鋳鋼場では平炉2基に設備増強図られ年産2,000製鋼能力日産約6鋳造能力備えた製造支配人山崎の意のごとく順調には進まなかったが、漸次技術改良重ねて製品品質も向上を示すようになった製品全て鋳鋼品で、種類鉄道用品、船舶用品、鉱山用品、錨、金敷など多方面にわたったが、新たに鋼塊製造開始製品追加した創業当時から鋳鋼車輪生産しており、中でも注目すべき製品一つ軽量堅牢かつ摩耗耐えるトロッコ車輪であった。ここで作られ鋳鋼車輪輸入チルド車輪比べ5倍の耐久力があり、各地鉱山採用された。鋳鋼車輪は錨とともに大正期半ば頃までは同鋳鋼場の代表的製品一つとなった第二次世界大戦後国内唯一の鉄道車輪として生産開始され、新幹線など世界最先端技術一翼担ったその後高精度真円技術有する唯一の鉄道車輪工場としての地位継承されドイツ鉄道DBICEにも採用されている。 1903年明治36年4月支配人となっていた山崎新技術導入事業経営研究のためヨーロッパとアメリカ長期出張した11月帰国帰国後の12月住友鋳鋼場は大阪開催され第5回内国勧業博覧会に1鋼塊ほか多数製品出展し名誉銀牌授与された。この頃海軍工廠からも受注するなど住友鋳鋼場の存在もようやく広く社会認められるようになり、事業体制がほぼ整った1904年明治37年2月日露戦争勃発とともに各地海軍工廠から錨の緊急注文大量に受けた昼夜増産努めこれに応じ終戦まで盛況続いた山崎は、技術向上と原価削減努力続け成果上げた鉄道作業局(後の帝国鉄道庁鉄道省)は同局使用する鉄道車輪などの鋳鋼品について外国製品の代替品として住友鋳鋼場の製品認定した1905年明治38年)、清国初め輸出契約締結翌年住友鋳鋼場として初の製品輸出行った1907年明治40年)、住友鋳鋼場は大阪市西区島屋町(現此花区島屋5丁目)に近代的新工場建設し創業の地である伝法から移転した1899年明治32年)に稼働開始し8年操業続けた伝法工場操業停止したこの頃鉄道庁用の鋳鋼製輪心の注文を受け輪軸の製作も行った同年6月京都帝国大学理工大学卒業した斉藤甚五郎を娘隆(タカ)の娘婿として迎える。甚五郎山崎甚五郎改名1909年明治42年)、台湾精糖会社サトウキビ運搬貨車大量納入した1912年明治45年)まで大口注文続いた1910年明治43年12月山崎久太郎住友鋳鋼場に移行して以来ほぼ10年努めてきた支配人の職を辞した日本鋳鋼時代含めると11年超える期間、製鋼パイオニア技術者として活躍した山崎製鋼に全精力傾け情熱をもって育て上げた住友鋳鋼場は、その後住友家住友総本店)の個人経営から株式会社組織として株式会社住友鋳鋼所となり、1935年昭和10年)に住友伸銅鋼管株式会社合併して住友金属工業株式会社(現・新日鐵住金)が発足し同社製鋼所(大阪)として受け継がれ発展した

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技師として

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藤波収」の記事における「技師として」の解説

藤波収1888年明治21年2月27日藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた生家杵築城の旧城下町一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹末子で、23歳年上長兄司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍軍医となり軍医総監務めた藤波正がいる。大分県立杵築中学校経て1905年明治38年熊本第五高等学校入学1908年明治41年)に卒業し上京して東京帝国大学工科大学電気工学科へと進んだ1911年明治44年7月東京帝国大学卒業同時に東京鬼怒川水力電気株式会社に技師として入社した同社栃木県北部鬼怒川上流発電所建設して東京へ送電する構想の下、入社前年1910年明治43年10月設立されいた電会社である。社長大分県出身利光鶴松入社早々東京拠点として郊外尾久村現・東京都荒川区)に建設が進む東京変電所赴任し変電所長に任ぜられた。その後鬼怒川下滝発電所から東京変電所への送電開始されたが、この完成機に鬼怒川水力電気人員整理実施したため、藤波1913年大正2年8月退職した。 しばらく浪人生活送った後、帝大時代恩師山川義太郎紹介により福澤桃介面会し1914年大正3年3月福澤経営する愛知県電力会社名古屋電灯株式会社へと入社した当時同社では木曽川開発手がけるべく臨時建設部が新設され直後であり、藤波臨時建設部に技師として勤務することとなった主任杉山栄の下に藤波石川栄次郎ほか1名が所属するだけという小さな組織であったが、順次増員され1916年大正5年2月には総務電気土木の3課を設置。この時藤波臨時建設電気課となった1917年大正6年3月外遊を命ぜられ横浜港出港アメリカ合衆国へ渡る。ゼネラル・エレクトリックウェスティングハウス・エレクトリック電機工場各地発電所などを視察しヨーロッパ経由11月帰国した。翌1918年大正7年9月名古屋電灯から臨時建設部を分離して電源開発担当する新会社木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)が発足すると、藤波同社電気課長に就任した1919年大正8年11月同社によって木曽川賤母(しずも)発電所完成したが、この建設工事では藤波電気部門の工事担任者一人であった

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技師として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 20:56 UTC 版)

坂本種芳」の記事における「技師として」の解説

青函連絡船桟橋可動橋など、多く可動橋設計した坂本にとっては、技術奇術表裏一体であり、坂本設計した多く可動橋には、奇術アイディア活かされた。 現存する昇開式可動橋としては日本最古日本最大筑後川昇開橋も、坂本可動部設計手掛けた坂本がこの使用した片側上方式」は、従来可動橋見られなかった新たな考案であった完成当時、この可動する光景は、地元民にとってはまさに魔法見たような驚きであった1937年にはこの模型パリ万国博覧会出品されて、好評博した坂本後年に、「新しトリックで人を驚かすことが好きで、そんな心理昇開橋設計はたらいた」と振り返っており、三男坂本圭史(アマチュア奇術師1982年著作『たのしいマジック』などの共著者)も「昇開橋可動装置が、イリュージョン人体浮揚術』の仕掛け力学的に共通し、父は趣味の手品から得られ知恵仕事にも生かしていた」と語っている。 坂本にとって、昇開橋は自らの技術集大成ともいえ、坂本昇開橋を自らの代表作として「息子」「四男坊」とも公言していた。1987年昭和62年)に旧国鉄民営化され、佐賀線廃止された後は、佐賀線鉄道橋梁として建設され筑後川昇開橋閉鎖されたことで、「筑後川昇開橋取り壊される」と危惧し昇開橋架かる福岡県大川市訪れた。「歴史的な遺産としてぜひ残してほしい」と願っていたが、昇開橋保存決定1992年平成4年)であり、坂本生前にその決定を知ることはなかった。 没後1996年平成8年)に、昇開橋遊歩道として再生された後は、同年4月29日開通記念式典で、坂本圭史ら遺族出席した2011年平成23年)の昇開橋改装時の記念式典では、昇開橋デザインされトランプ記念品として出席者たちに配布され坂本のことが「可動装置原理考案した鉄道省技手世界的な賞『スフィンクス賞』を受賞するなどアマチュア手品師としても有名です。坂本氏功績きらめく筑後川昇開橋デザインされトランプマジックはいかが』 と記載された。

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