技師として
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1864年(元治元年)12月、肥前国(現佐賀県)唐津藩藩士山崎庄蔵の長男として誕生。父庄蔵は御徒目付8石3人扶持であったが、明治維新後は藩制制定、廃藩置県を経て監察権小属を命じられた。 1887年(明治20年)9月、蔵前職工学校(現東京工業大学)(機械工芸部機械科)を第2期生として卒業。当時職工は技師の意。10月、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)雇機械工学教室詰、真野文二教授に師事。1890年(明治23年)に技手。 1893年(明治26年)8月、航路標識監理所(技手)を経て日本銀行建築所(技手)勤務となる。親戚筋の同郷唐津出身の辰野金吾に勧められ建設計画中の同行本館の建築に従事した。辰野は帝国大学教授で日本銀行本館(旧本館として現存)の設計監督者。日本銀行本館は1896年(明治29年)2月に竣工。 1894年(明治27年)7月、日清戦争勃発。 1896年(明治29年)3月、日清戦争の戦勝気分で国民意識が高揚している中、帝国議会により製鉄所官制が公布された。政府はドイツ最大で銑鋼一貫生産のグーテホフヌング製鉄所(GHH、ルール地方の工業都市オーバーハウゼンに所在)を範にとってその技術体系を官営八幡製鉄所に移転する計画であった。官営製鉄所創設の立役者は松方正義と農商務大臣の榎本武揚と言われている。和田維四郎(後に長官)や大島道太郎(技監)、小花冬吉(銑鉄部長)らの幹部が任命された。山崎は製鉄所工務部(技手)勤務となった。 1897年(明治30年)3月、農商務省より製鉄所建設に必要な製鉄技術習得のため総勢10名の技術者が選ばれ、山崎はその内の青年6名の一人としてドイツへの長期派遣を命ぜられた。当時、ヨーロッパは産業革命後の隆盛期で、先端技術は従来の鉄の時代から鉄道車輪や大砲などの武器などをつくる鋳鋼の時代に移行しつつあった。山崎が政府から与えられた研究テーマは製鉄用ロール技術であったが、山崎は最先端の鋳鋼の発展にいち早く着目した。山崎は同じ蔵前職工学校出身で3年後輩の羽室庸之助とともにもっぱら鋳鋼(製鋼)技術を習得することを誓い合った。両名は大胆にも所命の研究をそこそこにオーバーハウゼン隣接の中核工業都市エッセンにあるクルップ社などで最新の鋳鋼の研究に専念した。当時良質な鋼を得るための製鋼法としては平炉が主流であった。この頃、日本は鋼を主にヨーロッパからの輸入に頼っており、戦時には輸入が途絶える恐れがあった。 1899年(明治32年)、山崎は2年間の技術習得期間が終了し羽室とともにベルギーのアントワープ港から日本郵船常陸丸で帰国の途についた。この時、両名は安宿で滞在費を切り詰めながら現地で買い集めた鋳鋼製造の大型機械や設備を船に積み込み、自分たちは船賃の最も安いデッキパッセンジャー(steerage)に混じり約60日間の甲板上での生活を始めた。日本に帰国後、現地で鋳鋼の研究をした事情を上司に詳しく述べ、農商務大臣に引き続き鋳鋼製造の試験に従事したい旨嘆願した。しかしながら両名の願いは聞き入れられず休職を命じられた。切羽詰まった山崎は羽室と共に蔵前職工学校時代の恩師平賀義美を訪ね、窮状を打ち明け自分の思いを話した。山崎は平賀から鋳鋼製造の将来性や習得した技術・知識に関する良き理解と強力な支持をとりつけ、話は一時住友家による鋳鋼会社設立まで大きく発展した。平賀は大阪商品陳列所長(後に大阪織物会社を創業、日本初の工学博士)で住友家嘱託もしており、住友家から厚い信頼を得ていた。 1899年(明治32年)9月、平賀の尽力と斡旋により河上謹一(住友理事)、片岡尚輝、浅村三郎らから3万円余の出資を得て、短期間のうちに日本鋳鋼合資会社が設立された。浅村三郎は日本最初の特許事務所である浅村内外特許事務所の創設者で蔵前職工学校機械工芸部の一年先輩、第1回卒業生。山崎は羽室とともに河上謹一ら新会社の経営陣の支援を受けて、直ちに日本鋳鋼所の工場建設に着手した。工場敷地は大阪府西成郡伝法村(現大阪市此花区伝法3丁目、現伝法小学校敷地)で、伝法が創業地である鴻池組が工場を建設。所長は片岡尚輝、技師長山崎、羽室技師ら職員8名、工員24名の体制で操業開始に臨んだ。鋳鋼用の小型シーメンス式平炉(3㌧半)を1基設置し、同時にドーソン式ガス発生炉1基を備えた。これまでも陸軍の大阪砲兵工廠や海軍工廠で外国技術も導入し製鋼が試みられていたが、すべて失敗に終わっていた。 1900年(明治33年)3月、日本鋳鋼所は平炉の点火試験を行い試運転を開始した。徹夜の連続で幾多の困難を乗り越え、日本で最初の民間平炉を稼働させた。しかし稼働開始後も技術未熟のため所要とする製品が容易にできず、会社は大きな損失を出した。なお、官営八幡製鉄所の高炉が稼動したのは翌1901年(明治34年)2月のことである。 その後日本鋳鋼所の生産体制はほぼ整備されたものの、折からの金融恐慌の影響を受けて経営に行き詰まり、1901年(明治34年)6月、住友家(住友総本店)の住友吉左衛門友純が日本鋳鋼所の事業を買収し、住友家の個人経営による住友鋳鋼場として事業継承された。住友家は1897年に大阪伸銅場を創設し経営していたものの、鉄鋼業については重要な基礎産業であると認め将来性を嘱望していた。日本鋳鋼所の買収により、住友家は鉄鋼業に第一歩を印した。友純は、技師長の山崎久太郎に住友鋳鋼場長心得を命じ、技師羽室庸之助以下20名の職員と160名の工員もそのまま引き継いだ。 1901年(明治34年)7月、山崎は住友鋳鋼場長(後に支配人)に就任し工場経営の責任者となった。彼の下に設計・工作・会計の3係が設けられた。工場規模は操業開始当時と同じ3㌧半平炉1基を根幹とする平炉鋳鋼業の最小単位であったが、その後順次工場と機械設備の充実が図られた。1902年(明治35年)、住友鋳鋼場では平炉2基に設備増強が図られ、年産2,000㌧の製鋼能力、日産約6㌧の鋳造能力を備えた。製造は支配人の山崎の意のごとく順調には進まなかったが、漸次技術改良を重ねて製品品質も向上を示すようになった。製品は全て鋳鋼品で、種類は鉄道用品、船舶用品、鉱山用品、錨、金敷など多方面にわたったが、新たに鋼塊を製造開始し製品に追加した。創業当時から鋳鋼製車輪を生産しており、中でも注目すべき製品の一つは軽量・堅牢かつ摩耗に耐えるトロッコ車輪であった。ここで作られた鋳鋼製車輪は輸入のチルド車輪に比べ5倍の耐久力があり、各地の鉱山で採用された。鋳鋼製車輪は錨とともに、大正期半ば頃までは同鋳鋼場の代表的製品の一つとなった。第二次世界大戦後は国内唯一の鉄道車輪として生産開始され、新幹線など世界最先端の技術の一翼を担った。その後も高精度真円技術を有する唯一の鉄道車輪工場としての地位が継承され、ドイツ鉄道(DB)ICEにも採用されている。 1903年(明治36年)4月、支配人となっていた山崎は新技術導入と事業経営研究のためヨーロッパとアメリカに長期出張した。11月に帰国。帰国後の12月、住友鋳鋼場は大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に1㌧半鋼塊ほか多数の製品を出展し名誉銀牌を授与された。この頃、海軍工廠からも受注するなど住友鋳鋼場の存在もようやく広く社会に認められるようになり、事業体制がほぼ整った。 1904年(明治37年)2月、日露戦争の勃発とともに、各地の海軍工廠から錨の緊急注文を大量に受けた。昼夜増産に努めこれに応じ、終戦まで盛況が続いた。山崎は、技術向上と原価削減の努力を続け成果を上げた。鉄道作業局(後の帝国鉄道庁、鉄道省)は同局で使用する鉄道車輪などの鋳鋼品について外国製品の代替品として住友鋳鋼場の製品を認定した。 1905年(明治38年)、清国と初めて輸出契約を締結。翌年、住友鋳鋼場として初の製品輸出を行った。 1907年(明治40年)、住友鋳鋼場は大阪市西区島屋町(現此花区島屋5丁目)に近代的新工場を建設し、創業の地である伝法から移転した。1899年(明治32年)に稼働開始し8年間操業を続けた伝法工場は操業を停止した。この頃、鉄道庁用の鋳鋼製輪心の注文を受け輪軸の製作も行った。 同年6月、京都帝国大学理工科大学を卒業した斉藤甚五郎を娘隆(タカ)の娘婿として迎える。甚五郎は山崎甚五郎に改名。 1909年(明治42年)、台湾の精糖会社にサトウキビ運搬用貨車を大量納入した。1912年(明治45年)まで大口注文が続いた。 1910年(明治43年)12月、山崎久太郎は住友鋳鋼場に移行して以来ほぼ10年間努めてきた支配人の職を辞した。日本鋳鋼所時代を含めると11年を超える期間、製鋼のパイオニア技術者として活躍した。山崎が製鋼に全精力を傾け情熱をもって育て上げた住友鋳鋼場は、その後住友家(住友総本店)の個人経営から株式会社組織として株式会社住友鋳鋼所となり、1935年(昭和10年)に住友伸銅鋼管株式会社と合併して住友金属工業株式会社(現・新日鐵住金)が発足し、同社製鋼所(大阪)として受け継がれ発展した。
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技師として
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藤波収は1888年(明治21年)2月27日、藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた。生家は杵築城の旧城下町の一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩士であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹の末子で、23歳年上の長兄に司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍の軍医となり軍医総監を務めた藤波正がいる。大分県立杵築中学校を経て1905年(明治38年)熊本の第五高等学校に入学。1908年(明治41年)に卒業し、上京して東京帝国大学工科大学電気工学科へと進んだ。 1911年(明治44年)7月東京帝国大学を卒業。同時に東京の鬼怒川水力電気株式会社に技師として入社した。同社は栃木県北部の鬼怒川上流に発電所を建設して東京へと送電する構想の下、入社前年の1910年(明治43年)10月に設立されていた電力会社である。社長は大分県出身の利光鶴松。入社早々、東京の拠点として郊外の尾久村(現・東京都荒川区)に建設が進む東京変電所に赴任し、変電所長に任ぜられた。その後鬼怒川の下滝発電所から東京変電所への送電が開始されたが、この完成を機に鬼怒川水力電気は人員整理を実施したため、藤波は1913年(大正2年)8月に退職した。 しばらく浪人生活を送った後、帝大時代の恩師山川義太郎の紹介により福澤桃介と面会し、1914年(大正3年)3月、福澤が経営する愛知県の電力会社名古屋電灯株式会社へと入社した。当時、同社では木曽川開発を手がけるべく臨時建設部が新設された直後であり、藤波は臨時建設部に技師として勤務することとなった。主任杉山栄の下に藤波・石川栄次郎ほか1名が所属するだけという小さな組織であったが、順次増員され1916年(大正5年)2月には総務・電気・土木の3課を設置。この時藤波は臨時建設部電気課長となった。 1917年(大正6年)3月、外遊を命ぜられ横浜港を出港、アメリカ合衆国へ渡る。ゼネラル・エレクトリックやウェスティングハウス・エレクトリックの電機工場、各地の発電所などを視察し、ヨーロッパ経由で11月に帰国した。翌1918年(大正7年)9月、名古屋電灯から臨時建設部を分離して電源開発を担当する新会社木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)が発足すると、藤波は同社の電気課長に就任した。1919年(大正8年)11月、同社によって木曽川賤母(しずも)発電所が完成したが、この建設工事では藤波は電気部門の工事担任者の一人であった。
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技師として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 20:56 UTC 版)
青函連絡船桟橋可動橋など、多くの可動橋を設計した。坂本にとっては、技術と奇術は表裏一体であり、坂本の設計した多くの可動橋には、奇術のアイディアが活かされた。 現存する昇開式可動橋としては日本最古、日本最大の筑後川昇開橋も、坂本が可動部設計を手掛けた。坂本がこの橋で使用した「片側巻上方式」は、従来の可動橋に見られなかった新たな考案であった。完成当時、この橋が可動する光景は、地元民にとってはまさに魔法を見たような驚きであった。1937年にはこの模型がパリ万国博覧会に出品されて、好評を博した。坂本は後年に、「新しいトリックで人を驚かすことが好きで、そんな心理が昇開橋設計にはたらいた」と振り返っており、三男の坂本圭史(アマチュア奇術師、1982年の著作『たのしいマジック』などの共著者)も「昇開橋の可動装置が、イリュージョン『人体浮揚術』の仕掛けと力学的に共通し、父は趣味の手品から得られた知恵を仕事にも生かしていた」と語っている。 坂本にとって、昇開橋は自らの技術の集大成ともいえ、坂本は昇開橋を自らの代表作として「息子」「四男坊」とも公言していた。1987年(昭和62年)に旧国鉄が民営化され、佐賀線が廃止された後は、佐賀線の鉄道橋梁として建設された筑後川昇開橋が閉鎖されたことで、「筑後川昇開橋が取り壊される」と危惧し、昇開橋の架かる福岡県大川市を訪れた。「歴史的な遺産としてぜひ残してほしい」と願っていたが、昇開橋の保存決定は1992年(平成4年)であり、坂本が生前にその決定を知ることはなかった。 没後の1996年(平成8年)に、昇開橋が遊歩道として再生された後は、同年4月29日の開通記念式典で、坂本圭史ら遺族も出席した。2011年(平成23年)の昇開橋の改装時の記念式典では、昇開橋がデザインされたトランプが記念品として出席者たちに配布され、坂本のことが「可動装置の原理を考案した鉄道省技手。世界的な賞『スフィンクス賞』を受賞するなどアマチュア手品師としても有名です。坂本氏の功績がきらめく筑後川昇開橋がデザインされたトランプでマジックはいかが』 と記載された。
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