だいご‐こうとうがっこう〔‐カウトウガクカウ〕【第五高等学校】
第五高等学校
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第五高等学校
- 第五高等学校 (旧制) - 新制熊本大学の前身となった旧制高等学校。
- 山形県
- 山形県立山形第五高等学校 ⇒(統合) 山形県立山形東高等学校 ⇒ (分離)山形県立山形北高等学校
- 東京都
- 東京都立第五高等学校 ⇒ 東京都立小石川高等学校
- 愛媛県
- 福岡県
- 東海大学付属第五高等学校 ⇒ 東海大学付属福岡高等学校
関連項目
第五高等学校
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1891年(明治24年)3月荻村錦太と共に熊本市の第五高等中学校に赴任し、1892年(明治25年)1月教授となった。 五高では同じ元幕臣で英語学校の後輩篠本二郎と親しくした。英語科の同僚ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)とは当初は良好な関係にあったが、性格の不一致により次第に対立を深め、1894年(明治27年)ハーンは熊本を後にした。ハーンは退職後の書簡において、佐久間は宣教師と結託して自分より優秀な教師のボイコットを首謀したと訴えているが、真相は不明である。 一方、1896年(明治29年)後任として赴任した夏目漱石とは良好な関係を保ち、夏目は佐久間の英語力を評価して、生徒に「僕の分らないところは、佐久間先生に習って教えるから」と言っていたという。しかし、生徒にとって佐久間の教え方は高尚に過ぎ、度々「先生の講義は、少しもわかりません、もっと平易に教えて下さい」と注文を受けた。 他方、校長中川元も佐久間のことを嫌い、前校長で東京高等師範学校校長に転じた嘉納治五郎に掛け合って、佐久間を同校へ転出させるよう計ったという。転出計画は実現しなかったものの、1897年(明治30年)7月佐久間は非職となり、1898年(明治31年)1月依願退官した。
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