成立事情
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創建は室町時代とされるが、正確な時期はわかっていない。中興第1世となった富鏡により天正頃に開山したとされるが、少なくとも永禄頃に法(宝)蓮寺が布教活動を行っていたことが資料に見られる。天文17年(1548年)以前成立の『留守分限帳』と同じ頃に書かれたとみられる『寺家しゃ家之日記』という寺社領の記録に「ほうれんし」があり、この時点で既に大きな寺領を抱えていた。 江戸時代の塩釜村の村役人の執務参考記録である『塩釜町方留書』によると、富鏡より前の代については方丈御記録等に見当たらないので、富鏡を第1世として以後の僧正を2世3世と数えたとしている。また『鹽社由来追考』によれば、法蓮寺は古記伝で院号を「金光明山法蓮華院」、別名を「塩竈寺」、山号寺号を「一森山最上護国鹽竈寺」と言ったとする。『塩釜町方留書』も同様で、金光明山法蓮華院京都仁和寺の末寺であったと言う。『塩釜町方留書』にはさらに、法蓮寺黒門の額には「法蓮密寺」と書かれていたことが記録されている。 『宮城県史 第12巻』によれば、宮城県内の真言宗寺院は、現在は真言宗寺院でありながら慈覚大師を開山や中興開山とする歴史不明の寺院が多くあり、これらは天台宗寺院が改修されたものではないかと推測している。『鹽竈神社史』においても、天台宗だった塩竈神宮寺が法蓮寺の前身とする説を紹介しており、法蓮寺も元は天台宗寺院であった可能性がある。 中興第1世となった富鏡の経歴についての諸説を以下に挙げる。 『鹽竈神社史』によれば、富鏡は留守氏の命を受け祈祷すると言い日々神殿に詣でて読経していたが、社人がこれを嫌って留守氏に訴えたところ、崇仏の心が厚かった留守氏が社人の訴えを退けたうえ、富鏡を敬って鹽竈神社の別当とし、堂塔を建てて法蓮寺としたとされる。 『一宮鹽竈社』によれば、宮城郡八幡村の八幡宮は往古の大社で天台宗の社僧14房を抱えていたが、そのうちの般若房が末松山般若寺となって塩竈六共を支配し、また法蓮房が塩竈に移って法蓮寺となったとしている。同書ではさらに、富鏡は後北条氏の子息で箱根において出家した後、八幡宮法蓮花房の住持になり、法蓮寺が塩竈に移転の後は自然に鹽竈神社別当になったと記している。 末松山般若寺の安永の書き出しでは、今の本山は法蓮寺であるが、往古に八幡宮が大社であった際には法蓮寺の方が末寺であったと記しており、『宮城県史 第12巻』では富鏡が般若寺を出て法蓮寺を隆盛させたのではないかと推測している。 しかしながら、いずれの説も立証には至らず、今後の新たな史料発見が待たれる。
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成立事情
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寛政2年(1790年)頃、大田南畝が浮世絵師に関する考証を行う。 寛政12年(1800年)、笹屋新七(邦教)が系譜を加え、享和2年(1802年)、山東京伝が追考した。 文政2 - 4年(1819年 - 1821年)、式亭三馬が補記し、加藤曳尾庵が加筆した(「曳尾庵本」という。37名の浮世絵師が掲載される。ただし、「曳尾庵本」の成立を疑問とする偽書説も提出されている。) 天保4年(1833年)、渓斎英泉が補記し『無名翁随筆』として86名の浮世絵師を掲載。 天保15年(1844年)、斎藤月岑が『無名翁随筆』を補記し『増補浮世絵類考』とした。 慶応4年(1868年)、竜田舎秋錦が『新増補浮世絵類考』(127名収録)を編集した。 *以上の典拠は仲田勝之助校訂『浮世絵類考』(岩波文庫、1941)の解説による。 *中野三敏は『太田南畝全集』「浮世絵考証」の解題で、南畝原撰と思われる部分に、寛政6年から7年が活動期とされる写楽の記事を載せていることから、この部分の成立を寛政7年以 降としている。なお、岩波文庫を見るかぎり、南畝原撰部の成立を寛政2年頃とする根拠は明示されていない(「近来の研究では」と書くのみである)。
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成立事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/13 14:11 UTC 版)
《色彩交響曲》は、エドワード・エルガー卿の招きで、1922年度グロスター・スリー・クワイアーズ・フェスティヴァルへの出展作品として作曲された。同年はハーバート・ハウエルズやユージン・グーセンスも招待されており、各人が新作を依嘱されていた。ハウエルズは無言の合唱曲《シネ・ノミネ(ラテン語: Sine Nomine)》を提出したが、同作は70年後の1992年に蘇演されるまで、再演の機会に恵まれなかった。グーセンスは管弦楽伴奏合唱曲《沈黙(Silence)》を作曲し、エルガー自身はヨハン・セバスチャン・バッハのオルガン曲《幻想曲とフーガ ハ短調》を管弦楽用に編曲したものを提出した。 ブリスは交響曲を書き上げる決心をしたものの、最初のうちは作品の主題や性格をどんなものにするかを決めかねていた。手を付けられぬまま数週間が過ぎたが、だがある日、たまたま紋章学に関する本に出会い、それを読み耽るうちに、ある種の色には象徴的な意味があるということを知り、色についての交響曲を書くことが思い浮かんだのであった。楽章ごとに、それぞれの色に応じた性格付けを試みてはいるけれども、色そのものを描き出そうとはしていない。流麗で美しく織り成された作品だが、不協和音も巧妙に利用されている。作品は指揮者のエイドリアン・ボールトに献呈された。 1922年9月7日にグロスター大聖堂において作曲者自身の指揮の下、ロンドン交響楽団によって初演が行われた。準備不足のせいもあり、当初は歓迎されなかった。大編成のオーケストラが採用された作品であるが、会場には、演奏予定のその他の楽曲に必要な合唱団があまりに詰め掛けたため、いくつかの楽器を省いて上演しなければならないほどだった。エルガーも上演に立ち会ってくれたが、曲については「困っちゃうほどモダンだ」と評した。とはいえレパートリーに定着して、これまでにたびたび録音されてきたが、今のところは演奏会場で実演に接する機会に恵まれてはいない。
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成立事情
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中世のヨーロッパにおいては「女性は教会では黙すべし」という掟により、女性が教会や舞台の上で歌うことは禁じられていた。そこで、教会の聖歌隊では高音のパートつまり、ソプラノとアルトを、ボーイソプラノが担当していた。しかし、表現力に乏しく響きの弱いボーイソプラノのかわりに、アルトは成人した男性がファルセットを使って歌うようになった。これがカウンターテナーの始まりである。これは、特にイギリスの聖歌隊において伝統的に今でも続けられている。 その後、ソプラノのパートをスペイン系の非去勢男声ソプラノ(すでにカストラートの混在があったという説もある)が受け持つようになり、さらにカストラートの登場によってソプラノもアルトも彼らで占められるようになった。 カストラートの登場と衰退、その後の女性歌手の台頭により、カウンターテナーは長らく日の目を見ず、イギリスで細々とその伝統がまもられるにとどまる。しかし、第2次大戦後、アルフレッド・デラーの登場によって再びカウンターテナーは復活し、クラウス・フーバーなどの現代作曲家がこぞってカウンターテナーのための曲を作曲するようになり今に至っている。
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成立事情
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序文によれば、本書は長久年間(1040年-1044年)に首楞厳院(比叡山の横川中堂)の鎮源が書いたもの。鎮源は、新羅の義寂(7世紀後半から8世紀初め)が書いた『法華験記』(現存せず、その抄本とみられる『法華経集験記』が現存する)もしくは宋の義寂に触発され、その日本版として本書を著したという。
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成立事情
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「交響曲第4番 (シマノフスキ)」の記事における「成立事情」の解説
シマノフスキは、1932年にワルシャワ音楽院の院長職を退くと、経済的に難儀するようになった。そこで状況打開のためには演奏家として身を立てることを検討し、そのための目玉となるレパートリーとして、同年3月にザコパネでピアノ協奏曲の構想を練り始めた。間もなく協奏曲としてではなく4つめの交響曲として発表することを思い立ち、6月に完成に至った。 初演は1934年にロンドンで、ヤン・スメテルリンをソリストに迎えて行われた。本作はシマノフスキの存命中から代表作として評価を高めたが、そのため作曲者本人が国外で演奏旅行に出向く機会が増え、皮肉にもシマノフスキは体力を酷使して、寿命を早める結果を招いた。
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成立事情
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長寛勘文成立の契機となったのは甲斐国八代荘(山梨県東八代郡笛吹市八代町)における、熊野神人と甲斐守藤原忠重との紛争である。八代荘は、久安年間(1145年 - 1151年)に甲斐守藤原顕時が朝廷の承認を得て熊野本宮大社に寄進した荘園である。八代荘は甲斐国八代郡にあり、寄進を受けた時の熊野別当湛快は牓示を立てて社領であることを示した。院政期には院や院近臣の間で熊野信仰が盛んであったことから、数年後に鳥羽院は院庁下文を発して国司の妨害や公租を禁じたことにより、熊野社領荘園として公認された。さらにこの数年後には、近隣の長江荘および安多荘が社領に加納田として加えられ、これらの荘園も同じく鳥羽院の院庁下文により公租免除とされた。応保2年(1162年)、甲斐守に任じられた藤原忠重は、国内に新設された荘園や加納田を停廃せよとの宣旨を受け、甲斐国に下向させる目代の中原清弘にその旨を命じた。清弘は、在庁官人の三枝守政らとともに八代荘に軍兵を率いて侵入し、荘園の神人の抵抗を斥けて、牓示を撤去し、年貢を強奪したばかりか、在家追捕、神人の監禁・傷害といった濫行を起こした。 これに対し、熊野山はただちに朝廷に提訴し、翌長寛元年(1163年)、朝廷は明法博士の中原業倫に勘申させた。業倫は、八代荘設立の経緯と「熊野権現垂迹縁起」の記述とを根拠として、忠重らの狼藉を、院庁下文を無視し、伊勢と同体である熊野権現を侵犯したことから律の盗大祀御神物に相当するとして、絞刑とするべきだと勘申した。業倫の勘申により、伊勢と熊野が同体であるか否かが問題となり、断罪以上に重要な問題として関心を集めた。こうして有識者の意見が募られ、藤原範兼、中原師光(以上、同年4月15日付)、藤原永範(同年4月16日付)、藤原長光(同年4月21日)、藤原伊通(長寛2年〈1164年〉4月2日付)、清原頼業(同年4月24日付)といった人々が意見を述べた。これらの意見により、廟議は忠重を伊予国に配流し、清弘を投獄した。これら一連の過程で著された文書を集成したものが長寛勘文である。
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