反宗教改革のイタリアとは? わかりやすく解説

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反宗教改革のイタリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:24 UTC 版)

ルネサンスの歴史 (モンタネッリら)」の記事における「反宗教改革のイタリア」の解説

28 イル・モーロとシャルル8世 ミラノフランチェスコ・スフォルツァの第4子ルドヴィーコ・スフォルツァは肌が黒くイル・モーロ黒人)と呼ばれた彼の支配ミラノ最盛期となる。彼の手引きシャルル8世 (フランス王)ナポリ侵入する。(第一次第二次イタリア戦争29 サヴォナローラ 1494年フィレンツェロレンツォの子ピエロ追放しジロラモ・サヴォナローラ実権握った。しかし教皇アレクサンデル6世を敵に回し1498年サヴォナローラ処刑された。 30 ボルジア家の人びと ロドリーゴ・ボルジア1492年アレクサンデル6世 (ローマ教皇)になった彼の任命軍司令官になり、教皇領奪回戦争をしたのが息子チェーザレ・ボルジアマキアヴェリ理想君主としたのは彼である。 31 ユリウス2世 ユリウス2世 (ローマ教皇)教皇領奪回のため軍を率いたフランス軍利用したカンブレー同盟)が、フランスミラノ占領すると、思い直して神聖同盟軍結成しフランス追い出した。(カンブレー同盟戦争32 レオ10世 ロレンツォ・デ・メディチの子ジョヴァンニ・デ・メディチレオ10世 (ローマ教皇)となった教皇庁赤字を補うために免罪符発行した33 統一世界の終焉 ルネサンスにより精神世界でのカトリック教会独占崩れた。そして宗教権力に代わって、世俗権力個人の権利保証できる時代がやってきた。 34 ウィクリフ ジョン・ウィクリフ14世紀イギリス人教会エドワード3世 (イングランド王)献金要請すると、教会租税取り立て権利主張する事はできない論じた35 フス ボヘミアヤン・フスウィクリフ著作読み運命予定説賛成コンスタンツ公会議でもそれを主張し異端とされ、1415年火刑にされた。 36 エラスムス ロッテルダム生まれデジデリウス・エラスムスは、古代写本求めてヨーロッパ渡り歩き多く著作優雅なラテン語書いたイングランド書いたのが『痴愚神礼賛』で、既成権威批判した37 ウィッテンベルグ 1517年 ウィッテンベルグ大学神学教授マルティン・ルターは、レオ10世免罪符について『95ヵ条の提題』を発表ヨハン・テッツェル論争し反響広まった38 反逆者 1517年以前ルタールターの父は彼を法律家にさせたかったが、そばに落ちたのをきっかけに、彼は修道院入ったフス著作読んで共感し霊魂救済唯一の条件信仰であると考えた39 2つのドイツ ドイツ産業中心当初イタリアに近い南ドイツだった。ヴェネチアとの関係が悪化すると、フッガー家本社北へ移しアントワープブレーメンハンブルグドイツ経済中心になった。 40 破門 ルターライプツィヒヨハン・エック論争し教皇至高否定したレオ10世は2ヶ月以内主張撤回せねば破門申し渡した。ルター破門教書公然と焼いた41 ウォルムス 1519年カール5世 (神聖ローマ皇帝)即位ルターウォルムス国会召喚され教皇権威公会議権威否定した42 大暴動 フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)ルターヴァルトブルク城かくまったドイツ各地農民暴動起こったが、諸侯により鎮圧された(ドイツ農民戦争)。 43 カール帝とフランソア王 1504年フェルナンド2世 (アラゴン王)スペイン軍ナポリ征服第二次イタリア戦争)。1515年フランソワ1世 (フランス王)ミラノなど北イタリア占領。しかしカール5世皇帝になると、1524年パヴィアの戦い北イタリア奪還した第三次イタリア戦争)。 44 ローマ劫掠 1523年ジュリオ・デ・メディチロレンツォの甥)がクレメンス7世 (ローマ教皇)となったカール5世部下ゲオルク・フォン・フルンツベルクランツクネヒト軍団暴走し1527年ローマ劫掠45 英国教会の分離 ヘンリー8世 (イングランド王)は、アン・ブーリン再婚するため、キャサリン王妃との離婚希望した。が、教皇クレメンス7世認めないヘンリー僧官会議開き国王が英教会最高指導者である事を認めさせ、イングランド国教会ローマカトリックから分離した46 ルターの勝利 ルター当初信徒集団司祭決め権利認めていたが、結局世俗権力聖職者任命権を持つ事になった1546年ルター死。 47 ツヴィングリ チューリヒフルドリッヒ・ツヴィングリ教皇至高免罪符反対した。1531年チューリヒ攻めたスイスカトリック州軍との戦いで戦死48 カルヴァン ジャン・カルヴァンフランス生まれルターの説に共感しフランス逃げバーゼルで『キリスト教綱要』を発表カルヴァン運命予定説人生への自信積極性引き出すことになった49 苦悩する知識人 ルター当初エラスムス尊敬し、師と呼んだ。しかしルター教皇至上否定すると、エラスムスルターと距離をとった。エラスムス新旧両教の妥協求めたが、不可能だった50 イタリアの展望 ナポリ1504年以後スペイン副王支配1535年以後ミラノカール5世支配フィレンツェアレッサンドロ・デ・メディチカール5世傀儡だった。 51 マントヴァ-イザベラとマンテーニャ フェラーラエステ家の娘イザベラ・デステは、近郊マントヴァゴンザーガ家嫁いだマントヴァ美術アンドレア・マンテーニャ迎えて最盛期となる。 52 宮廷人-カスティリオーネとアレティーノ ウルビーノバルダッサーレ・カスティリオーネは、著作宮廷人』でその理想書いたヴェネツィアピエトロ・アレティーノは『ラジオメンティ』でローマ社会皮肉った53 アリオスト フェラーラルドヴィーコ・アリオストは、8世紀舞台とした『オルランド狂乱』に、幻想満ちた超現実書いた54 チェリーニ フィレンツェ生れベンヴェヌート・チェッリーニ彫金師で、ローマで名をあげた。代表作フィレンツェシニョーリア広場の『ペルセウス像』。 55 マキアヴェリ ニッコロ・マキャヴェリフィレンツェの第2書記官長1502年チェーザレ・ボルジア面識1505年傭兵制でなく民兵制提案。がユリウス2世神聖同盟軍負けて1512年失脚し、サンカシアーノで1513年君主論』を執筆56 グイッチアルディーニ フランチェスコ・グイチャルディーニフィレンツェアレッサンドロ・デ・メディチコジモ・デ・メディチ顧問引退後イタリア史』『フィレンツェ史』を執筆57 レオナルド レオナルド・ダ・ヴィンチヴェロッキオ工房修行イル・モーロへの自薦状ではいろん能力並べ最後に「絵も描けます」。ミラノで『最後の晩餐』。フランチェスコ・ジョコンドの妻リザモデルに『モナ・リザ』。科学についてのノート50冊が残る。 58 ヴェネツィアの画家たち ジョルジョーネティツィアーノ・ヴェチェッリオジョヴァンニ・ベリーニ弟子ティントレットティツィアーノ弟子パオロ・ヴェロネーゼはバディーレの弟子59 ラファエッロ ラファエロ・サンティウルビーノ生まれで、ペルジーノ弟子。1504-8の間フィレンツェ在住、『ひわの聖母』。以後ローマ行きアテナイの学堂』『小椅子の聖母』。遺体パンテオン納められる。 60 イタリアの異端者たち ベルナルディーノ・オキーノ (イタリア語) はジョヴァンニ・ヴァルデス (スペイン語) に影響され運命予定説をとった。教皇召喚され逃げヨーロッパ放浪ロンドン著作にはげんだ。 61 レーゲンスブルグ 1534年パウルス3世 (ローマ教皇)即位カトリックのうちの柔軟派コンタリーニ枢機卿 (英語) は1541年レーゲンスブルグルター派代表と会談し信仰義認論に賛成した。しかしその合意文書教皇庁批准しなかった。 62 ロヨラ イグナチオ・デ・ロヨラはモンテギュー神学校で、ピエトロ・ファベル(英語)とフランシスコ・ザビエルらを同士とした。彼らの集まり1540年正規修道会認可され、「イエズス会となった。彼らは世界布教乗り出す63 トレントの序章 カール5世帝国融和希望し1545年パウルス3世主宰トレント公会議開会新教徒との妥協点見出そうとしたが、正統派カトリック教義確認されていった64 パウルス4世 1555年皇帝カール5世退位スペイン王フェリペ2世 (スペイン王)任命フェリペアンリ2世 (フランス王)戦い勝利第六次イタリア戦争)、1559年カトー=カンブレシスの講和イタリアでスペイン覇権確立したイングランドでは1558年エリザベス1世即位イギリス国教会地位確立した65 公会議 1562-3年、トレント公会議再開決議された。結局新教徒とは完全決裂となった教皇庁世俗的策動断念する。ただし善悪聖職者決める。 66 反宗教改革の戦争 スペインサヴォイアジェノヴァベネツィア4国連艦隊は、1571年レパントの海戦トルコ海軍勝利1588年アルマダの海戦スペイン無敵艦隊イギリス艦隊戦ったが、船が速く、砲の着弾距離が長いイギリス勝った67 破り得ぬ敵 フェリペ2世スペインヨーロッパ統一できなかった。なぜか。カルヴィン勤倹宗教は、近代資本主義モラル形成、これが近代世界仕事能率文明築いたフェリペ2世はこの敵とぶつかったのである68 斜陽のイタリア スペインイタリア支配の2拠点ナポリミラノフィレンツェ影響にあったグレゴリウス13世 (ローマ教皇)グレゴリオ暦1年を365.2425日とした。イタリアで宗教的寛容のある国はヴェネツィア共和国けだった69 ミケランジェロ ミケランジェロ・ブオナローティドメニコ・ギルランダイオ工房修行1498年に『ピエタ』、1503年ダヴィデ』、1512年天地創造』、1541年『最後の審判』1564年の死の前まで『ロンダニーニのピエタ』を彫っていた。 70 タッソ トルクァート・タッソ1581年叙事詩エルサレム解放』はベストセラーになった第1次十字軍素材とし、キリスト教徒エルサレム占領する71 ブルーノ ジョルダーノ・ブルーノロンドン彼の宇宙論を含む哲学書を書いたイタリア帰る異端審問所告発された。審理7年続き1600年判決。カンポ・デ・フィオーリ (イタリア語) で火刑となった

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