アルマダの海戦
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アルマダの海戦(アルマダのかいせん)、アルマダ戦争(アルマダせんそう、英語: Battle of Armada, Armada Wars)は、スペイン無敵艦隊(英語: Spanish Armada、スペイン語: Grande y Felicísima Armada)のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。
注釈
- ^ ウィンターからウォルシンガムへの書簡によると火船はドーバーから徴発したのではなく艦隊のものを使用していた。(John Knox Laughton,State Papers Relating to the Defeat of the Spanish Armada, Anno 1588, printed for the Navy Records Society, MDCCCXCV, Vol. II, pp. 8–9)
- ^ 小林幸雄は、本当ならば無敵であったはずという慨嘆と哀悼の意を題名に込めたのではないかとしている。
- ^ armadaそのものはスペイン語の普通名詞で、これに相当する英語はnavyである。ただしヨーロッパの言語では、ある国独特の組織・地位などを半ば固有名詞的に指す場合には、その国の言葉をそのまま用いる習慣がある。Czar(ロシア皇帝)、Shogun(江戸幕府の将軍)など。
- ^ 当時イングランドはまだグレゴリオ暦を採用していない。
- ^ 低地諸国の一部でスペインの統治から離脱しようとしていた。
- ^ スペイン視点からこの戦いを論じた『アルマダの航海-スペインの物語』(1981年)の著者ディヴィット・ハワースは通説である粗悪な樽材による水食糧の被害を疑問としている。(海野(1985),pp.175-176)
- ^ 当初、船隊旗艦はサンタ・アナ号(Santa Ana)だったが、リカルデ提督はサン・ファン号に乗り換えている。(石島(1981),p.116)
- ^ 帆船とガレー船の折衷型の船種。
- ^ 疫病により1万6,000人に減っていた。
- ^ これはメディナ=シドニア公の証言で、パルマ公は準備はできていたと主張している。ルイス(1996),pp.194-196
- ^ 用例:谷恒生『超・帝国無敵艦隊』(勁文社、1993年)や霧島那智『上杉謙信の野望―北の無敵艦隊』(青樹社、2001年)など。また、ゲームでも例えば『エースコンバット04 シャッタードスカイ』(ナムコ、2001年)に登場するエルジア共和国海軍主力艦隊「エイギル艦隊」の別名として用いられている。
- ^ 用例:“グラスゴーの奇跡…いや奇跡じゃない 無敵艦隊を撃沈”. 朝日新聞デジタル. 2012年7月27日閲覧。
村松尚登(2010)『スペイン代表「美しく勝つ」サッカーのすべて---“無敵艦隊”の強さを徹底分析! 』、河出書房新社、ISBN 978-4-3092-7171-2
出典
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アルマダの海戦
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詳細は「アルマダの海戦」を参照 エリザベスは財政難を補うため私掠船に私拿捕特許状を与え、植民地から帰還途上のスペイン船を掠奪させており、私掠船長のフランシス・ドレークは1585年から1586年に西インド諸島のスペイン諸港と船を襲撃する航海を敢行し、1587年にはカディスを襲撃してイングランド経営計画 (Enterprise of England) を企図するスペイン艦隊の船舶の破壊に成功していた。この為、フェリペ2世は遂にイングランドとの本格的な戦争を決意する。 1588年4月29日、スペイン無敵艦隊がパルマ公率いるスペイン陸軍をネーデルラントからイングランド南東部へ輸送すべく英仏海峡へ向けて出港した。無敵艦隊には幾つもの誤算と不運が重なり、イングランド軍による火船攻撃によって混乱した無敵艦隊は7月29日のグラヴリーヌ沖で敗北し、艦隊は北東へ潰走した。帰路、アイルランド沿岸で嵐に巻き込まれて大損害を出したスペイン艦隊残余は散りぢりになって本国へ帰還した。 無敵艦隊の運命を知らないイングランド民兵がレスター伯の指揮の元での国土防衛のために召集されていた。8月8日、彼はエリザベスを閲兵のためにエセックス州ティルベリー(英語版)へ招いた。ビロードのドレスの上に銀色の胸当てを着た彼女はここで最も有名な演説 (en) を行った。 我が愛する民よ、私は私の身を案じる者たちから忠告を受けて来た。謀反の恐れがあるから武器を持った群衆の前に出るのは気をつけよと。しかし、私は貴方たちに自信を持って言う。私は我が忠実かつ愛すべき人々を疑って生きたくはない。(中略)私はか弱く脆い肉体の女性だ。だが、私は国王の心臓と胃を持っている。それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。 侵略軍は襲来せず、国民は歓喜した。セント・ポール大聖堂でのエリザベスの感謝の祈りを捧げる行列は彼女の戴冠式に匹敵する壮観なものであった。無敵艦隊の撃退はエリザベスとプロテスタント・イングランドにとって強力な宣伝となる勝利であった。イングランドは彼らの救済を神の恩寵そして処女王の下の国家の不可侵と受け取った。しかしながら、この勝利は戦争の転換点とはならず、戦いは続き、しばしばスペインが優勢ともなった。スペインは依然としてネーデルラントを支配しており、侵略の脅威は依然残っていた。 イングランド艦隊は反撃に出て翌1589年にポルトガルを攻撃するが、目的のスペイン艦隊を捕捉できなかった上に多くの損害を出しエリザベスを激怒させる結果に終わった(イングランドの無敵艦隊(英語版))。1590年以降、イングランドは西インド諸島を度々攻撃し、1596年にはチャールズ・ハワード卿及び寵臣ウォルター・ローリー、エセックス伯ロバート・デヴァルー率いる艦隊がスペインの要衝カディス港襲撃に成功している。
※この「アルマダの海戦」の解説は、「エリザベス1世」の解説の一部です。
「アルマダの海戦」を含む「エリザベス1世」の記事については、「エリザベス1世」の概要を参照ください。
アルマダの海戦(1588年)
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「ボナヴェンチャー (ガレオン)」の記事における「アルマダの海戦(1588年)」の解説
翌年、ボナヴェンチャーはジョージ・クリフォード(英語版)の指揮の下、アルマダの海戦に参戦した。この戦闘でボナヴェンチャーは総積載可能量の8%に相当する51.5トンの兵器を輸送した。1588年9月25日に実施された点検では、ボナヴェンチャーがアルマダ海戦で受けた損傷は僅かに帆の一部のみに「銃で撃たれたいくつかの穴」がみとめられる程度であった。
※この「アルマダの海戦(1588年)」の解説は、「ボナヴェンチャー (ガレオン)」の解説の一部です。
「アルマダの海戦(1588年)」を含む「ボナヴェンチャー (ガレオン)」の記事については、「ボナヴェンチャー (ガレオン)」の概要を参照ください。
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