琉球王国 民族

琉球王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 20:57 UTC 版)

民族

琉球王国の正史中山世鑑』や『おもろさうし』などでは、12世紀源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球最初の王統の始祖・舜天になったとされる。真偽は不明だが、第二尚氏2代王の尚真1522年嘉靖元年・大永2年)に建立した「石門之東之碑文」に漢文で「尊敦(舜天の神号)から20代目の王」[11]と彫らせ、続く3代王の尚清1543年(嘉靖22年・天文12年)に建立させた「かたのはなの碑」の表碑文に和文で「大りうきう国中山王尚清ハそんとんよりこのかた二十一代の王の御くらひをつきめしよわちへ」と彫らせ、裏碑文に同様の内容を漢文で彫らせている[12]。舜天の始祖説は琉球の正史として扱われている。これら話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産み、さらに日琉同祖論へとつながったとも言える。16世紀前半には「鶴翁字銘井序」等に起源が見られた日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、1922年大正11年)には「為朝上陸の碑」が建てられ、表碑文に「上陸の碑」と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。

また天孫氏裔を自称した初代中山王察度1368年洪武元年・貞治7年)に真言宗の勅願寺(後に護国寺)の創建と熊野信仰波上宮の創建を行っている。

『中山世鑑』を編纂した羽地王子朝秀は、摂政就任後の1673年康熙12年・延宝元年)3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[13]。沖縄学の研究者の伊波普猷は、琉球の古語や方言に、中国文化の影響が見られない7世紀以前の日本語の面影が多く残っているため、中国文化の流入以前に移住したと見ている[14]

高宮広土(鹿児島大学)が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降であるため、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘する[要出典]ように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている[15][16]遺伝子研究では、琉球列島(沖縄諸島宮古列島八重山列島)の集団は、遺伝的に中国本土台湾の集団との直接的なつながりはなく、日本本土と同一の父系を持つという研究結果や[17][18][19]、2018年の核DNA分析から遺伝的に、アイヌから見て琉球人が最も近縁であり、次いで日本本土人が近縁であるという研究結果が発表されている[20][21]

2021年11月10日マックス・プランク人類史科学研究所を中心とした、中国日本韓国ヨーロッパニュージーランドロシアアメリカの研究者を含む国際チームがネイチャー』に発表した論文[要出典]によると、宮古島市長墓遺跡先史時代人骨DNA分析したところ「100%縄文人」だったことが分かり、先史時代の先島諸島の人々は沖縄諸島から来たことを示す研究成果となった[22]。また、言語学および考古学からは、中世グスク時代11世紀~15世紀)に九州から「本土日本人」が琉球列島に移住したことが推定でき、高宮広土(鹿児島大学)は、「結果として、琉球方言の元となる言語を有した農耕民が本土から植民した。著名な『日本人二重構造論』を否定するという点で大変貴重だ」と指摘している[22][23]

16世紀の琉球人

16世紀頃の琉球人を知る手がかりとしてよく知られているのは、ポルトガル人旅行家のトメ・ピレスが1515年正徳10年・永正12年)に記したとされる「東方諸国記」の第四部「シナからボルネオに至る諸国」にある、「レケオス(Lequeos)は元々ゴーレス(Guores)であり、正直かつ勇猛で交易相手として信頼に足る。彼らは明に渡航してマラッカに来た品々を持ち帰る。そしてジャンポン(Jampon)に赴いて金や銅と交換するという。また、彼らは偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した[24]。しかし、現在まで続く沖縄の土着信仰は無形のアニミズム祖霊崇拝おなり神信仰であり、当時すでに首里近郊には仏教寺院が多くあったため、明の滞在歴のあるピレスがそれらを指して「偶像崇拝者」と捉えるのは不自然であるとし、レケオスは琉球ではないとの指摘もある[要出典]

また、ピレスと同時期にマラッカの植民地征服に成功したポルトガル人総督のアフォンソ・デ・アルブケルケの叙述伝である「アルブケルケ実録(アルブケルケ伝)」には「ゴーレス(Gores)の本国はレキオス(Lequios)である、彼らは色白で正直であり、長衣をまとい、腰に細身の長剣と42cm程度の短剣を常に佩用していて、マラッカでは彼らの勇猛さは恐れられている。また彼らは交易が終わればすぐに出発し、マラッカに留まることを好まない。」[25]と記されており、長衣に大小の打刀を佩用する琉球人は室町武士と同様の出で立ちであり、日本文化圏に帰属する傍証だとする研究者や、ゴーレスはレキオス(琉球)交易船に乗り込んでいた本土日本人であるとする研究者もいる。いずれの内容も琉球が東アジアにおいて、中継貿易に長けていたということに変わりはない。

一方で、薩摩侵攻時の王府三司官であった謝名利山羽地王子朝秀の改革を引き継いだ蔡温らは、1392年洪武25年・明徳3年)に洪武帝より下賜され琉球に入籍した閩人[注 4]久米三十六姓の末裔であり、琉球王朝の高官や学者、政治家を多く輩出している。その多くは久米士族として琉球人と同化していった。


注釈

  1. ^ 中山王としての即位は1421年である
  2. ^ 形式上は琉球国の領域とされるも直轄統治を受け事実上割譲された奄美群島を除く。また、島津氏による軍事行動を除き、琉球の人民の検束などは「掟十五条」に反するものであっても、代官でも無闇にできるものではなく、例えば貿易に関する不正があった場合も捜査、取り調べおよび検束は琉球王府に断りを入れてする必要があった。
  3. ^ 建国当時はマジャパヒト王国との交易があったことが知られているが、のムスリム・鄭和の保護下で新興イスラム国家・マラッカ王国が急速に貿易の主導権を奪い、琉球はマラッカ王国と貿易するようになった。
  4. ^ (福建人ならびに福建省客家
  5. ^ 三山不統一につき和田久徳は、早期の『明実録』『歴代宝案』で三山統一が明示されたわけではなく、単に南山の遣使が翌年以後に記載を見ないだけであるとして、三山統一の史実が存在しないとした [26]
  6. ^ 石井望は、三山統一説の始見は1456年『寰宇通志』巻百十六琉球国條だとする。その條の記述に、永楽年間に冊封を受けたが、「自後惟だ中山王のみ來朝し、今に至るまで絶えず、その山南山北二王は蓋し中山王の併する所となる云」との推測が記載されている。明国では実情が分からず、ただ朝貢が来ないだけだとする。よって石井は、三山時代とはイスラム宦官貿易時代であり、統一と見えるのは鄭和らの宦官貿易時代が終ったに過ぎないとする。1429年以後も争乱が相継ぎ、統一にほど遠いが、金丸尚円時代からは薩摩の貿易統制の結果、琉球の統一性が高まり、尚氏は世襲され、後に第二尚氏と呼ばれるに至る、とする[27]
  7. ^ このような姿勢は、漢族や非漢族による、中国地域に成立したいわゆる『中原王朝』に(中原王朝から見て)朝貢していた時代の日本、越南、朝鮮、その他諸国に広くみられる態度である。前近代においては、自国および他国の国家の元首の格付けを、対象とする地域や相手によって、都合よく操作することはよくあることである。
  8. ^ 実際には、後述の中城王子(王世子)の薩摩藩への上国時に提出させられ、そのまま国王となる事による。直接提出を命じられた国王は尚寧王だけである。
  9. ^ 組踊「万歳敵討」。敵役である登場人物が、競馬がらみのトラブルで主役の兄弟の父親を殺害している。

出典

  1. ^ 渡久地政宰『日本文学から見た琉歌概論』(武蔵野書院1972年)、299-300ページ。
  2. ^ 琉球王国とは”. 首里城公園. 2023年11月8日閲覧。
  3. ^ 【基礎からわかる】琉球王国とは?”. 読売新聞オンライン (2022年4月30日). 2023年11月8日閲覧。
  4. ^ 本田惣一朗監修『日本の家紋大全』 梧桐書院2008年
  5. ^ 安里進・山里純一「古代史の舞台 琉球」 上原真人他編『古代史の舞台』<列島の古代史1>岩波書店 2006年 391頁
  6. ^ 最古級の日本全図、室町初期作か”. 読売新聞 (2018年6月15日). 2018年6月15日閲覧。
  7. ^ 月刊正論2022年9月号、JAN 4910055990927
  8. ^ 小玉正任『琉球と沖縄の名称の変遷』 琉球新報社 2007年
  9. ^ 浮縄の嶽(浮縄御嶽・オキナワノ嶽) | 那覇市観光資源データベース”. 那覇市観光情報 (2018年6月26日). 2019年4月3日閲覧。
  10. ^ 東恩納寛惇 南島風土記 pp.16 地名概説『沖縄』
  11. ^ 国王頌徳碑(石門之東之碑文) [拓本]
  12. ^ 矢野美沙子、「為朝伝説と中山王統」『沖縄文化研究』 2010年 35巻 p.1-48, NCID AN0003370X, NAID 120003142293, 法政大学沖縄文化研究所, ISSN 1349-4015
  13. ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」。
  14. ^ 伊波普猷『琉球古今記』 刀江書院 1926年
  15. ^ “ルーツ解明 沖縄に注目”. 朝日新聞. (2010年4月16日). オリジナルの2010年4月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100420201708/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274.html 
  16. ^ “ルーツ解明 沖縄に注目”. 朝日新聞. (2010年4月16日). オリジナルの2011年6月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110629171640/http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004160274_01.html 
  17. ^ “現代沖縄人DNAの遺伝系統「日本本土に近い」”. 琉球新報. (2014年9月17日). https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-231707.html 
  18. ^ “沖縄の人々、ルーツは「日本由来」 南方系説を否定”. 沖縄タイムス. (2014年9月17日). https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/44163 
  19. ^ ゲノム多様性データから明らかになった先史琉球列島人の移動における取材について』(PDF)(プレスリリース)琉球大学、2014年9月16日http://www.u-ryukyu.ac.jp/univ_info/announcement/data/press2014091601.pdf 
  20. ^ “やはりアイヌ人と琉球人の方が本土人よりも遺伝的に近かった - 東大など”. マイナビニュース. (2012年11月2日). https://news.mynavi.jp/techplus/article/20121102-a126/ 
  21. ^ “アイヌ民族と沖縄の人、遺伝的な特徴に共通点”. 朝日新聞. (2012年11月1日). オリジナルの2013年7月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130729213058/https://www.asahi.com/culture/update/1101/TKY201210310836.html 
  22. ^ a b “宮古島先史の人々「北側の沖縄諸島から」「南から」説を覆す 人骨DNA分析で100%縄文人”. 沖縄タイムス. (2021年11月12日). オリジナルの2021年11月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211113042120/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/862140 
  23. ^ “トランスユーラシア言語は農耕と共に新石器時代に拡散した”. 九州大学. (2021年11月26日). オリジナルの2021年11月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211127021902/https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/ 
  24. ^ トメ・ピレス『東方諸国記』を読む篠原陽一「海上交易の世界と歴史」- 『東方諸国記』(生田滋他訳注、大航海時代叢書5、岩波書店、1966) はトメ・ピレス著"Suma Oriental que trata do Mar Roxo até aos Chins"(紅海からシナまでを取り扱うスマ・オリエンタル)の日本語訳
  25. ^ 中島楽章「ゴーレス再考」『史淵』第150巻、九州大学大学院人文科学研究院、2013年3月、69-116頁、doi:10.15017/26231ISSN 0386-9326NAID 120005227295 
  26. ^ 和田久徳『/ 琉球王国の形成・三山統一とその前後』(榕樹書林、2006年)所収「琉球国の三山統一についての新考察」(1975年)、「琉球国の三山統一再論」(1987年)
  27. ^ いしいのぞむ「驚愕の古琉球史」、『純心人文研究』第30号、2024年2月
  28. ^ 『琉球王国評定所文書』
  29. ^ 琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔
  30. ^ 琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件国立公文書館
  31. ^ 真境名安興『沖縄一千年史』記載の「職制創設年表」の一覧(318、319頁)には「表十五人」の職制はない。
  32. ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻、392-394頁参照。
  33. ^ 新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画
  34. ^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房 東洋企画
  35. ^ 上里隆史 2002.
  36. ^ 浮島神社 | 沖縄県神社庁
  37. ^ 東京大学史料編纂所 編『史料綜覧』 巻十七、東京大学出版会、1963年3月25日、33頁。NDLJP:2966192 
  38. ^ 『浦添市史』〈浦添市教育委員会、1983年3月〉231頁
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  42. ^ 琉球と袋中上人展 - エイサーの起源をたどる -
  43. ^ 東本願寺沖縄別院
  44. ^ 新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画
  45. ^ 「小説 琉球処分」による検索結果 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア”. www.kinokuniya.co.jp. 2023年12月14日閲覧。
  46. ^ 集英社文庫 琉球建国記”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2023年12月14日閲覧。
  47. ^ WEBザテレビジョン. “画像・写真 カリスマ琉球王・尚巴志のドラマ放送 ナレーションは国仲涼子(6/12)”. WEBザテレビジョン. 2023年12月14日閲覧。
  48. ^ 琉球歴史ドラマ 尚円王”. RBCショップ. 2023年12月14日閲覧。
  49. ^ 沖縄セルラーpresents 琉球歴史ドラマ「阿麻和利」(全3話)|RBC 琉球放送”. RBC 琉球放送 (2023年12月11日). 2023年12月14日閲覧。
  50. ^ 【プチララ】琉球のユウナ 第1話 | 響ワタル | 無料漫画(マンガ)ならコミックシーモア”. www.cmoa.jp. 2023年12月14日閲覧。






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