霞ヶ浦 歴史

霞ヶ浦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 06:15 UTC 版)

歴史

近代以前

香取神宮拝殿
鹿島神宮拝殿
利根川東遷事業を進めさせた徳川家康

約12万年前の下末吉海進と呼ばれた時代、霞ヶ浦の周辺は関東平野の多くと同じく古東京湾の海底であり、7万2千年前ごろの最終氷期の始まりとともに徐々に陸地化したと考えられている。3万年前まで鬼怒川が現在の桜川の河道を流れ、その幅広い谷が西浦の主要部を形作った。2万年前には陸地化とともに出来た川筋によって現在の霞ヶ浦の地形の基礎が形作られた。1万数千年前の縄文海進では、低地が古鬼怒湾とよばれる海の入り江となったとされる。現在霞ヶ浦周辺で多く見られる貝塚はこの時期に形成されたと考えられている。

4世紀から7世紀にかけて霞ヶ浦周辺でも古墳が築造されるようになり、当時のヤマト王権と手を結ぶような勢力を持つ豪族があらわれるようになる。720年代に書かれたという『常陸国風土記』によれば、霞ヶ浦は製塩が行われ、多くの海水魚が生息するような内海であった。現在霞ヶ浦湖畔の浮島村は、当時はであり周囲は海水であった[14]

その後、鬼怒川小貝川による堆積の影響から、海からの海水の流入が妨げられるようになり、汽水湖となっていったと考えられている。

平安時代末期から室町時代にかけての香取神宮文書や鹿島神宮文書には「海夫」とよばれた人々が記されている。海夫は神祭物を納める代替として漁業や水運などの特権が認められていた。一方、中世には常陸大掾(だいじょう)氏常陸国府大掾職を世襲。職名を名字として勢力を拡大していき、戦国時代まで各分家が霞ヶ浦周辺を勢力下においている。その後、北方の佐竹氏が勢力を南下させ、1591年に佐竹義宣が霞ケ浦周辺の地元領主(南方三十三館)を一斉に誘殺し、佐竹氏が周辺域を掌握している。

江戸時代に入り、利根川東遷事業と呼ばれる一連の事業によって、利根川の水は霞ヶ浦方面にも流れ出すことになった。このことで、利根川を遡り、江戸川を経由して江戸に至るという関東の水運の大動脈が開通する。霞ヶ浦周辺の産物を江戸へと送る流通幹線となり、霞ヶ浦や利根川は東北地方からの物産を運ぶルートにもなっていたため河岸(かし)と呼ばれる港は大いに繁栄した。

一方、霞ヶ浦や利根川沿いの低湿地の開発は近世に入ってからといわれる。利根川東遷事業とともに鬼怒川や小貝川下流域、新利根川の開削とその周辺の新田開発などが大規模に行われるようになっている。

しかし、1783年浅間山大噴火が一つの転機をもたらす。この噴火は利根川の河床を堆積によって急激に上昇させ、利根川の水害を激化することにもつながった。これに対し、江戸幕府は川の拡幅などによって銚子方面へ流れる水の量を増やす工事を行う。これが結果として利根川の霞ヶ浦を含む利根川下流域に洪水を追いやり、水害を深刻化させる原因となる。また、堆積のほか、当時は小氷期とも呼ばれる冷涼な時代で、海水面が低下していたことも一層の淡水化を促すものだった。これらの結果、生息する魚介類も海水から汽水・淡水に生息するものへと変化し、漁業も現在のものに近いワカサギやコイ、フナなどを対象とするものが定着していったと考えられている。

近代

足尾鉱毒事件解決に奔走した田中正造
飛行船ツェッペリン伯号(LZ 127)

明治時代まで、利根川の「主流」は確定していなかった。しかし、足尾鉱毒事件の発生によって霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になる。この方針は結果として霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながる。しかし、1938年6月に「昭和13年の洪水」といわれる霞ヶ浦の近代治水史上最大の大洪水が発生する。さらに1941年には「昭和16年の洪水」といわれ大規模な洪水が再び発生する。これらの二度にわたる大洪水は1939年に起工された利根川増補計画の教訓となり、のちの治水事業にも引き継がれていく。

明治に入ると利根川水系に蒸気船が就航し、霞ヶ浦にも間もなく航路が開設されるようになる。当時は銚子経由で東京に船で行くルートなどがあったが、常磐線総武本線などの鉄道が開通すると長距離航路は急速に減衰していき、水運は霞ヶ浦と利根川下流域を結ぶ短・中距離航路へと性格を変えていった。

また、漁業では、有名な帆曳き漁が考案され隆盛を極めた。農業においては、干拓事業が推進され、1920年代-1930年代を中心に多くの干拓事業が起工されている。

一方、1916年には現在の茨城県土浦市および阿見町の湖畔一帯に、大日本帝国海軍の航空施設が建設される。規模は次第に拡張され霞ヶ浦航空隊が設置された。1929年8月19日には、当時世界最大の飛行船だったドイツツェッペリン伯号が世界一周中に霞ヶ浦航空隊に寄港。このときは、見物客が押し寄せ、観衆は30万人に及んだ。また、1931年8月には、大西洋単独無着陸飛行を初めて成し遂げたチャールズ・リンドバーグ夫妻が北太平洋航路調査のため来日。26日に霞ヶ浦を訪れた。

現代

常陸川水門
鹿島臨海工業地帯

戦前期の洪水の教訓から1948年から浚渫工事が着手される。工事着手後にも1950年8月8日には、利根川の増水の影響で北浦沿岸の鉾田町で550戸、潮来町で66戸が浸水被害を受けている[15]。対策工事の進展によって海水が遡上しやすくなると、「昭和33年塩害」など霞ヶ浦の周辺域では農作物被害などの塩害が顕著に発生するようになり、常陸川水門(通称:逆水門)の建設を強く促進した。常陸川水門は、当初から汽水性のヤマトシジミが生息できなくなることなどから特に漁民の強い反対を招いてきたが、水門の完成によって霞ヶ浦の淡水化は決定的になった。

一方、当時の日本は高度経済成長の最中にあり、それに伴う霞ヶ浦への利水上の要請は霞ヶ浦開発事業へと発展することとなる。霞ヶ浦開発事業は広域地域開発と首都圏の長期的な水需要のための利水と治水の目的で行われ、1968年建設省によって着工され、1971年水資源開発公団が事業を継承。以来25年の歳月をかけて1996年に総事業費約2864億円で完成した。これら一連の開発事業は、鹿島臨海工業地帯の開発や筑波研究学園都市などの開発事業や、首都圏・都市域の拡大と人口増加を背景にした水資源開発の要請と連動しつつ行われてきた。

戦後、市民生活が落ち着いてくると水運は単なる住民の移動手段から、水泳や水郷などの観光航路としての性格を持つようになる。しかし、1960年代から霞ヶ浦の水質汚濁が進むことで水泳場が閉鎖されていき、さらに自動車・道路の普及に伴って水運は衰退し、今では消滅している。

これらの中距離航路のほかに霞ヶ浦の各地では渡船が存在し、人々の足を担ってきた。また、道路などが未整備だった時代には、霞ヶ浦の周辺では個人が船を所有し、物や人を運ぶのに欠かせない存在であった。特に香取市の北部にある「十六島」と呼ばれる地域においては顕著で、江間(エンマ)やミイコとよばれる細かい水路が縦横無尽に入り組み、「水郷」と呼ばれる独特の景観をかたちづくっていた。

漁業では、1960年ごろまでは豊かな淡水性の魚介類はもとより、スズキなどの汽水域に生息する魚もよく漁獲されていたが、これ以降、霞ヶ浦の漁業は大きく変化していく。まず、常陸川水門が設置されたことによって、霞ヶ浦は海とのつながりを遮断され、淡水化への道を歩むことになる。その結果、スズキなどの汽水魚やウナギなどの生活史の中で海から遡上する魚が減少し、それらの漁獲も減っていく。

また、1960年代後半にはそれまでの帆曳き漁にかわり、効率のよいトロール漁業への転換が進むが、これが逆に資源の枯渇を招き漁獲量は減少していくことになる。また、淡水性の貝類も1970年前後に漁獲が激減。1975年には汽水でしか生息できないヤマトシジミの漁業権の補償がなされた。このころは経済成長が進むのと時を同じくして霞ヶ浦の富栄養化が進行し、アオコの発生や養殖コイの大量死などが発生するようになってくる時期である。1990年代後半には漁獲総計が70年代の1/5程度にまで減少するに至った。

なお、太平洋戦争前から霞ヶ浦は干拓が進んできたが、最後の干拓地であった高浜入干拓の余剰や自然保護、地元漁民などの強い反対運動に遭い、漁業権の補償金が支払われたまま1978年に事実上の中止が決定している。

1987年には、西浦に初の橋となる霞ヶ浦大橋が開通した。開通後はしばらく有料道路であったが、2005年11月に無料開放された。2009年現在も唯一の橋である。なお、北浦には鹿行大橋北浦大橋神宮橋新神宮橋東日本旅客鉄道(JR東日本)鹿島線の橋梁の5本が架かっている。


注釈

  1. ^ 日本の湖沼の面積順の一覧」を参照。秋田県にある八郎潟干拓されて水域の大半が鵜失われ、それまでの第3位から第2位となった。
  2. ^ 利根川合流点に近い「下流」のほうでは、気象条件や水門・閘門の操作によってまれに海水が遡上することがあり、汽水域を形成するが、一時的、局所的なものに留まる。
  3. ^ 「入り」という呼称は、入り江・湾状の地形に対して用いられる。ここに挙げたもののほかにも小さな湾に対して「〜入り」という名称がついている。
  4. ^ 湖沼に独立した「海区」が設定されている例は、霞ヶ浦と琵琶湖のみである。
  5. ^ かつては鹿島鉄道線桃浦駅 - 八木蒔駅 - 浜駅間で、西浦では最も湖岸に近い所を走っていた。天気がよければ、車窓から霞ヶ浦と筑波山までを望むこともできていた。しかし、鹿島鉄道線が2007年4月1日に廃線になったため、その場所に行くには、石岡駅からバスを利用することになる。

出典

  1. ^ a b 水資源機構. “霞ヶ浦(茨城県)”. 2018年4月26日閲覧。
  2. ^ 外国人にわかりやすい地図表現検討会 (2016年1月6日公表) (PDF). 地名の英語表記及び外国人にわかりやすい地図記号について. 国土地理院. p. 7. https://www.gsi.go.jp/common/000111876.pdf#page=7 
  3. ^ a b c d 霞ヶ浦流域 茨城県庁(2023年5月24日閲覧)
  4. ^ a b 茨城県. “いばらきの川紹介_川の名前の由来(第3回)”. 茨城県. 2019年9月5日閲覧。
  5. ^ 茨城県. “はみだし013:霞ヶ浦の湖水に潜む西浦と北浦の別名称。その由来とは?”. 茨城県. 2019年9月5日閲覧。
  6. ^ a b c d 霞ケ浦 外来魚捕獲しエビなど保護 湖の「厄介者」飼料や肥料に/茨城県事業化へ実証実験東京新聞』夕刊2023年5月24日(社会面)同日閲覧
  7. ^ a b 早川唯弘 著、茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年、459頁。"砂州"。 
  8. ^ 「5年半ぶりコイ養殖再開 霞ヶ浦・北浦」『茨城新聞』2009年4月29日
  9. ^ 【その1】活けジメ”. ヤマハ発動機株式会社. 2022年8月21日閲覧。
  10. ^ 【ご当地 食の旅】食用鯉(茨城・霞ケ浦)凍結切り身で万能食材に『日本経済新聞』朝刊2021年8月14日別刷りNIKKEIプラス1(9面)
  11. ^ 茨城県霞ケ浦北浦海区漁業調整規則”. 茨城県. 2015年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月28日閲覧。
  12. ^ 霞ヶ浦アオコ情報 -茨城県霞ケ浦環境科学センター
  13. ^ 湖のほとりを紡ぐ花火の話 《見上げてごらん!》13”. NEWSつくば. 2023年5月31日閲覧。
  14. ^ 『常陸国風土記』の信太郡に「乗浜の里の東に、浮嶋の村あり。四面絶海にして、山と野交錯れり。戸は一十五烟、田は七八余なり。居める百姓、塩を火きて業と為す。而して九つの社ありて、言と行を謹諱めり。」とある。
  15. ^ 「北浦も増水」『日本経済新聞』昭和25年8月8日3面
  16. ^ a b c d e Bus Stop Ibaraki~いばらき路線バス案内所”. 2019年3月28日閲覧。


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