退廃芸術 概説

退廃芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/29 01:35 UTC 版)

概説

ナチスは「退廃した」近代美術に代わり、ロマン主義写実主義に即した英雄的で健康的な芸術、より分かりやすく因習的なスタイルの芸術を「大ドイツ芸術展」などを通じて公認芸術として賞賛した。これらの芸術を通してドイツ民族を賛美し、危機にある民族のモラルを国民に改めて示そうとした。一方、近代美術はユダヤ人スラブ人など、ナチスが劣った血統と見做した人種の芸術家たちが、都市生活の悪影響による病気のため、古典的な美の規範から逸脱し、ありのままの自然や事実をゆがめて作った有害ながらくたと非難した。

近代芸術家らは、芸術院や教職など公式な立場から追放された上に制作活動を禁じられ、ドイツ全国の美術館から作品が押収された上、「退廃芸術展」によって全国の展覧会で晒し者にされ、多くの芸術家がドイツ国外に逃れた。一方公認芸術は、「人種的に純粋な」芸術家たちが作る、人種的に純粋な「北方人種」的な芸術であり、人間観や社会観や描写のスタイルに歪曲や腐敗のない健康な芸術とされた。

皮肉なことに、近代芸術を身体的・精神的な病気の表れである「退廃」だとした理論を構築した人物は、マックス・ノルダウというユダヤ人であった。この理論はノルダウ以降も右翼や一部美術家を中心に盛んに取り上げられ、後にナチスも、第一次世界大戦後の文化の堕落を論じたり、人種主義的な主張を補強するために利用している。

退廃芸術の理論

マックス・ノルダウ
チェーザレ・ロンブローゾ

「退廃」という概念は、道徳的に堕落している事を指すもので、古くは18世紀より規範に外れた絵画などを批判するために使われていた用語であった。この概念を近代社会や近代芸術全般を批判するために大々的に提起し有名にしたのは、ハンガリー出身の内科医作家評論家シオニストでもあったマックス・ノルダウ1892年の著書『退廃(Entartung、堕落論、退化論とも訳される)』であった[1]。ノルダウによれば、芸術家は過密する都市や工業化など近代生活による犠牲者であり、こうした生活によって脳の中枢が冒された病人とされた。

ノルダウがこの著書のインスピレーションを受けたのは、精神科医で犯罪学者のチェーザレ・ロンブローゾ1876年の著書、『犯罪人論(L'uomo delinquente)』であった。ロンブローゾは膨大な異常心理者やその身体的特徴を調査することにより、人々の中には、隔世遺伝的に原始人状態の人格の特徴が現れるために、近代社会に適応できない人物がいることを科学的理論によって結論付けようとし、犯罪者の中には「生まれながらの犯罪者」が存在することを証明しようとした。

ノルダウはこの理論を疑似科学的な根拠として用いながら、「世紀末芸術」や「世紀末」的文化状況の「倫理的堕落」に対して、幾分俗物的な立場からの批判を行った。ノルダウはロンブローゾの理論に基づき、近代の芸術家もまた彼のいう「生来的犯罪人」同様、原始からの隔世遺伝的な退廃に冒され、身体的・精神的な異常を抱えていると断言した。彼にすれば、音楽文学視覚芸術など、あらゆる形式の近代芸術には、精神的不調と堕落の症状が現れていると見えた。近代芸術家たちは身体の疲労と神経の興奮の両方に苦しめられているため、すべての近代芸術は規律や風紀を欠き、首尾一貫した内容がなくなっているとした。ノルダウは特に印象派絵画フランス文学象徴主義イギリス文学唯美主義を集中的に攻撃した。象徴主義の中の神秘主義思想は、精神病理学的な産物であり、印象派画家のペインタリネス(絵画表面のありよう)は視覚皮質の病気の兆候とされた。

ノルダウの疑似科学的な芸術における退廃の理論は、ドイツだけでなく欧州全土でベストセラーとなり、イギリスのほか日本にも世界各国に広く紹介された。この理論は、ヴァイマル共和政の時代になって民族主義的美術家たちや右翼、そして国民社会主義者(ナチス)らによって大きく取り上げられ、ドイツ芸術における人種的純粋さを取り戻すための議論の基礎、近代化や敗戦後のデカダンスの影響で文化も堕落したという主張の基礎となった。近代美術家は人種的に純粋な芸術家に比べて「人種的に純粋な芸術」を作ることができず、劣った民族の血統を受け継いでいるか、精神的トラウマや人格的問題があるか、堕落した文化の影響が強すぎるためにゆがんだ芸術を作るとされた。

ナチスの理論家、アルフレート・ローゼンベルクとその機関(ローゼンベルク機関や、「ドイツ文化のための闘争同盟」など)はドイツ文化の純粋化と「退廃」一掃のために大きな役割を果たした。ローゼンベルクは退廃芸術の理論を、1930年に発行した大ベストセラー『二十世紀の神話』で初めて使用した[2]

パウル・シュルツェ=ナウムブルク

芸術評論家・建築家のパウル・シュルツェ=ナウムブルグドイツ語版はその主著『芸術と人種』(1928年)、『ドイツ人の芸術』(1933年)、『北方の美─生活及び芸術に現れたるその理想像』(1937年)などで[3]、古代ギリシアなど古典古代の芸術や、ドイツ中世の芸術をアーリア人の芸術の真の源泉として称揚する一方[4]、近代美術家は自ら気づかないうちに自分たち自身の民族(ユダヤ人や、東ヨーロッパ人種であるスラブ人など)の特徴を作品の中に表現していると述べた。これを証明するため、彼はノルダウとロンブローゾの手法を活用した。近代美術作品(特にドイツ表現主義)の中のゆがんだ形の人物像と、奇形や病気の人々を写した写真を並べて見せたのである[5]。シュルツェ=ナウムブルクはさらに健康な人の写真と「北方人種らしい英雄的な芸術」の作例を並列し、近代美術は人種的に不純であると結論した[6]

ドレスデンの女性画家ベッティーナ・ファイステル=ローメーダードイツ語版は、ドイツ民族に失われた父祖伝来の芸術を思い出させることを目的とし、第一次世界大戦敗戦後の1920年に「純粋な」ドイツ人のみを会員とする「ドイツ芸術協会」を結成、機関誌『ドイツ芸術通信』を通じて表現主義などの芸術潮流を攻撃し[7]、前衛芸術を「退廃」と切って捨てる攻撃的な編集を行うなど反近代美術活動家として知られ、シュルツェ=ナウムブルクの影響やローゼンベルクの後援を受けるまでになった。ファイステル=ローメーダーも、近代芸術と精神障害者の絵画との共通性を挙げたほか、フランスにおけるアフリカ美術の造形的影響を「芸術のネグロ化」とし、ドイツ芸術にユダヤ・スラブ・黒人などの影響が入る事を堕落とみなした。

アドルフ・ヒトラー自身もかつては建築や美術の道へ進もうとして挫折しており、著書や演説、談話などでもしばしば芸術を話題とした。「ある時代の政治の偉大さは、それが生み出す芸術の水準の高さで推し量られる」という彼の信念からすれば、ドイツの芸術の「退廃」は嘆くべきものであった[8]

第一次世界大戦後のドイツ美術

フランツ・マルクの代表作『青い馬の塔』(1913年)
ヒトラーは本作を見て「青い馬などいない」と放ったとされる。1937年にベルリンのナショナル・ギャラリーから没収され、以後所在不明となった。
小説家・画家のヨアヒム・リンゲルナッツによる『Hafenkneipe』(1933年)

ドイツ美術は永らくイタリアフランスの影響下にあったが、19世紀にはカスパー・ダーヴィト・フリードリヒフィリップ・オットー・ルンゲなど、崇高さやドイツの民族主義的テーマを探る独自のロマン主義的動きもあった。19世紀末にはフランス現代美術の影響を受けてミュンヘン分離派(1892年)、ベルリン分離派(1899年)など新しい美術を求める動きが登場した。フランス印象派の影響を受けた画家マックス・リーバーマンはベルリン分離派の主導的な立場にあり当時の社会からも広く認められた。第一次世界大戦前にはブリュッケ青騎士といった前衛芸術グループが登場、表現主義的な絵画はドイツの画壇に衝撃を与える。しかし近代芸術に対する風当たりは強く、1909年には国立絵画館のフーゴー・フォン・チューディが印象派絵画の購入を行ったかどで皇帝ヴィルヘルム2世に解任される事件も起こっている[9]

敗戦後、ヴェルサイユ体制のもとで混乱するドイツ社会では、エミール・ノルデエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーオスカー・ココシュカエルンスト・バルラハヴィルヘルム・レームブルックなど優れた画家・彫刻家が多数活動し、近代美術を集めて展示する公立・私立の美術館が開設されるなど、近代美術に追い風が吹き始めた[5]。また、個人的な表現主義を排して、戦後の享楽的な文化・腐敗した指導層・混乱する大衆社会など、都市や人間を写実的・即物的に描く新即物主義があらわれた。ゲオルク・ショルツジョージ・グロスゲオルク・シュリンプオットー・ディックスなどがこの中に含まれる。またダダイスムがドイツ国内にも波及している。

同じ頃、ヴァイマルにヴァイマル国立バウハウスが設立され、ヴァルター・グロピウスを校長としてリオネル・ファイニンガーラースロー・モホイ=ナジヨハネス・イッテンワシリー・カンディンスキーらが教職についた。芸術と工業を融合させた機能的・合理的な作品制作や、独創的なカリキュラムが組まれるなど、後の世界各国のデザインや芸術に影響を与える重要な学校であった。

近代美術への非難

しかしこうした活発なドイツの美術活動は大きな批判も受けていた。伝統的な美術の範囲から逸脱していることへの反発もさることながら、彼らの中にユダヤ人や東欧人が含まれていることが非難され、またユダヤ人やボルシェビキから支援を受けているドイツ民族の敵であるという非難もあった。表現主義も新即物主義も、どちらもゆがんだ形や色彩で敗戦後ドイツ社会の負の部分をことさら取り上げ、ドイツの社会や軍人や女性を愚弄・嘲弄し、暴力的な色彩や形態で見る者の精神を損なうものだとして批判を受けた。またバウハウスは内部における表現主義と合理主義の路線争いのほか、ドイツ共産党やユダヤ=ボリシェヴィキの手先として右翼からの攻撃を受けたことをきっかけに、1925年にヴァイマルを去り、より進歩的な街だったデッサウに移転を強いられる[10]

デッサウ移転後に建設されたバウハウス校舎

そして英雄らしさや軍人らしさなど「ドイツの価値観」にそぐわない芸術のすべて(印象派、表現主義、ダダイスム、合理主義など、ほぼすべての近代美術や近代の音楽・建築など)は、ドイツ文化・社会を堕落させるコミンテルンの陰謀の道具である「文化ボルシェヴィズム」として、右派勢力からの攻撃を受けた[11]。ことにヒトラーは、19世紀半ば以降の芸術を理解せず、印象派すら彼の理解を超えており[12]、特に20世紀に入ってからのダダイスムキュビズムを、狂気であり堕落であり病気であると呼んで嫌悪し、これらはボルシェヴィズムの公認芸術である、と著書『我が闘争』で非難した[13]。彼は1910年までのドイツ芸術の水準の高さを賛美する一方で、それ以後に進んだ「退廃」を嘆いており[14]1925年にスケッチブックに残したメモでは、かつて青年時代の自身を窒息させ芸術への道から締め出したはずのアカデミズムを体現するような、19世紀の写実主義的な作家を中心とした「ドイツ国立美術館」の構想を描いている[15]

バルラハの戦没者記念像

近代美術が右派や一般市民から非難を浴びた実例には次のようなものがある[16]。彫刻家エルンスト・バルラハは、第一次世界大戦の戦没者記念像を作り、その一つは1920年代末に政権にあった社会民主党により、1929年マクデブルクに設置されたが(現在はマクデブルク大聖堂に安置中)、これは市民から大きな非難を浴びた。この像は簡略化された人物表現を特徴としており、一本の十字架を支えて屹立している3人の兵士、うち両側の二人は防寒着やヘルメットで固い表情を隠し、中央の人物は顔を前に向け毅然と立っているが、その印象は戦友の死を悼んで静かな悲しみが漂っている。十字架の下にはヘルメットをかぶった兵士がいるがすでに白骨化しており、両側には耳を両手で覆って眼をふさぐ父親と、ベールで顔を覆い両手を握り締める母親がうずくまっている。好意的な意見では、高貴さと戦死者に対する哀悼が伝わる精神性の高い彫刻だというものもあったが、市民の多くは「なぜ国のために遠い戦地で英雄的に戦って死んでいった若者がこのように虚ろに見えるのか」、「気が重くなる。青少年に悪影響を与える」、「ドイツ軍人を愚弄している」などと猛反発した。中には「人物の何人かはゲルマン民族に見えない。程度の低いスラブ・モンゴルの特徴があるのではないか」というようなものもあった。市民やメディアの多くは英雄らしさより大戦の悲惨さを強調した像に対し、自らやドイツ自体が否定されたような印象を受けて像を攻撃した。その手段として、人種的特徴も利用された。バルラハの作品はマクデブルク戦没者記念像やハンブルク市戦没者記念碑など、戦争の記念碑や公共空間に置かれたものが多かったため、特に世論を刺激した。


  1. ^ ニコラス p.16、Barron 1991, p.26
  2. ^ Adam 1992, p. 33
  3. ^ 関楠生 pp..27-30
  4. ^ Adam 1992, pp. 29-32.
  5. ^ a b ニコラス p.17
  6. ^ Grosshans 1983, p. 9.
  7. ^ a b 関楠生 p.34
  8. ^ 勅使河原純 pp..48-49
  9. ^ ニコラス p.16
  10. ^ 関楠生 pp..24-25
  11. ^ 関楠生 p.45
  12. ^ 関楠生 p.110
  13. ^ 関楠生 pp..45-46
  14. ^ 1942年3月23日の『食卓談話』より。関楠生 p.110, 勅使河原純 p.54
  15. ^ 勅使河原純 pp..50-53
  16. ^ 関楠生 pp..202-210
  17. ^ 関楠生 p.26
  18. ^ 関楠生 pp..30-33, ニコラス p.18
  19. ^ 関楠生 pp..35-36
  20. ^ ニコラス p.15
  21. ^ 関楠生 pp..36-46
  22. ^ 関楠生 pp..46-48
  23. ^ 関楠生 pp..48-50
  24. ^ ニコラス pp..18-19、関楠生 pp..62-64
  25. ^ ニコラス pp..20-21
  26. ^ ニコラス p.21
  27. ^ ニコラス p.26, 関楠生 pp..56-62, p.72
  28. ^ a b 関楠生 pp..75-81
  29. ^ 関楠生 pp..9-11
  30. ^ 関楠生 p.19
  31. ^ 関楠生 pp..38-43
  32. ^ 関楠生 p.16
  33. ^ 関楠生 pp..11-18
  34. ^ 関楠生 pp..19-21
  35. ^ 関楠生 pp..65-70
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  37. ^ 関楠生 p.74
  38. ^ 関楠生 p.81
  39. ^ 関楠生 pp..82-86, ニコラス p.27-29, p.33
  40. ^ 関楠生 p144, 勅使河原純 pp..57-58
  41. ^ 関楠生 pp..144-146
  42. ^ 関楠生 pp..146-149、勅使河原純 pp..60-61
  43. ^ 関楠生 pp..176-179
  44. ^ 関楠生 pp..154-172
  45. ^ 関楠生 p.168
  46. ^ 関楠生 p.165
  47. ^ 関楠生 p.149
  48. ^ 関楠生 pp..151-152
  49. ^ ニコラス p.32
  50. ^ 関楠生 pp..152-154, ニコラス p.32
  51. ^ 関楠生 pp..172-176
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  53. ^ 関楠生 p.181
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  59. ^ 関楠生 p.110, p.143
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  63. ^ ニコラス pp..22-24
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  67. ^ 関楠生 p.186、ニコラス pp..34-35
  68. ^ 関楠生 p.187
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  72. ^ 関楠生 p.192
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  74. ^ 関楠生 pp..228-251
  75. ^ 関楠生 pp..233-234
  76. ^ 関楠生 p.239
  77. ^ 関楠生 pp..237-238
  78. ^ 関楠生 pp..224-250






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