退廃芸術 『大ドイツ芸術展』

退廃芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 09:08 UTC 版)

『大ドイツ芸術展』

一方、「血と土」に重きを置くナチスのイデオロギーに即し、「真性のドイツ民族芸術」を集めた本格的な展覧会を開こうという動きも具体化した。

ドイツ芸術の家建設

ミュンヘンの「ドイツ芸術の家」(現「芸術の家」、2006年撮影)

そのきっかけは1931年にミュンヘンの美術展示場、「グラースパラスト(ガラス宮殿)」が失火で炎上したことだった。19世紀半ばに工業技術の粋を集めて作られたガラスの工業展示館は19世紀以降、全国的な公募美術展のために使われ、ドイツ各地から保守的な風俗画や前衛作品まで多様な作品が寄せられていた。1933年政権に就いたヒトラーはグラースパラスト再建計画に介入し強力に推進し、みずから眼をかけていた建築家パウル・ルートヴィヒ・トローストに設計を任せ、モダニズムを排して古代ギリシア風を模した石造の巨大建築を作らせた[57]。この新グラースパラスト改め『ドイツ芸術の家』(Haus der Deutschen Kunst)は1933年秋に着工し1937年夏に完成する予定だったが、この竣工にあわせて、ドイツの「民族芸術」の模範となる作品を全国から集める展覧会が企画された。これが『大ドイツ芸術展』(Großen Deutschen Kunstausstellung)である。

作家選択の混迷

企画から開幕まで3週間で済ませた退廃芸術展と違い、こちらは1936年暮れから全国造形美術院を通じドイツ中の美術家に参加が呼びかけられたが、当初は実力のある作家の最高の作品を集めることが目的で、まだ美術院から除名されていなかった退廃芸術家らも排除されてはいなかった[58]

1937年に入り、芸術政策の締め付けを受けて、ナチス以前のように前衛傾向の作家が徒党を組む時代は終わらなければならない、という呼びかけに改められたが、実際に大ドイツ芸術展に応募した作品を見て、美術院総裁ツィーグラーやナチス系の画家、宣伝省などからなる選考委員会は頭を抱えた。かつてのグラースパラストでの公募展同様に前衛的(退廃的)な作品も多く集まり、退廃芸術一掃の宣伝が行き届いていない状態だった。

この様子を聞いたゲッベルス、そしてヒトラー自らミュンヘンにやってきて審査の模様を見たが、相変わらずの「退廃作品」の多さにヒトラーは「もう一年延期しろ!」と叫んだほどだったという[59]。その後ヒトラーや側近たちの手で作品の大幅な入れ替えが行われ、なんとかヒトラーに気に入る形になった展覧会はヒトラー臨席のもと1937年7月18日開幕した。

ヒトラーは開幕演説で新しいドイツ民族の芸術の殿堂誕生を祝福したが、演説の多くは結局退廃芸術のことに割かれた。彼はダダイスムやキュビズムなどを、芸術の天性にまったく恵まれなかった代わりに話術の才能だけが発達した者たちが喧伝しただけの代物で、ドイツ民族にはまったく関係のあるものではないとし、大ドイツ芸術展開幕は芸術家気取りたちの最期となり退廃芸術掃討の始まりである、と怒号に近い調子で述べた[60]

ナチス公認芸術の傾向

空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング、造形美術院総裁アドルフ・ツィーグラーらとともに大ドイツ芸術展を鑑賞するヒトラー

大ドイツ芸術展はこれ以後毎年、夏から秋にかけて1944年まで開催され続けることになり、会場となったドイツ芸術の家には数十万の観客が毎回訪れた。

作品の傾向は、ヒトラーの言葉通り[61]「美しい物を好ましく壮大な物を崇高に」描くことを良しとするものであった。またヒトラーの趣味を反映して20世紀以降の芸術思潮は反映されず、第二次世界大戦が始まり戦争画が増えるまでは、19世紀的な風景画や農民画、風俗画が絵画の大半を占めた[62]。特に、都市は精神の退廃の源とされたためか、ドイツ国民の多くを占める都市住民や工場労働者はほとんど描かれず、国民の内のわずかな割合に過ぎない農民ばかりが描かれた。農民の生活は、長時間労働など現実の農村の過酷さよりも理想化して描かれ、農家の大家族の団欒が異様に氾濫した。これはナチスの血と土というイデオロギーと、大家族や出産を奨励した当時の人種政策が深くかかわっているが、世界最高レベルの科学国・工業国の美術が農民風俗画に逆戻りし、あたかも農業国の絵画のような状態を呈したのは異様な事態ではあった[63]

また裸体像も大きな割合を占めた。ツィーグラーを始め多くの画家が古代神話を題材にしたヌードや、寓意的なヌード、農村少女のヌードなど裸婦像を多く描いた。女性は肉体的魅力が強調され男性を迎え入れる体勢にあるように描かれたが、一方男性は筋肉が過度に強調された英雄的な姿が多く描かれた[64]

アルノ・ブレーカー作 『党』(Die Partei)

裸婦や裸の戦士像の描写では、絵画よりも彫刻のほうがより好まれ、北方人種的裸体像が会場にあふれた。中でも、壮大さや崇高さ、意思や力を強調する巨大彫刻が非常に多く制作され、展覧会場のみならず政府庁舎や市街地を巨大彫刻が飾ることになる。ナチス時代以前から新古典的な作風で有名だったが、ナチス時代以降巨大な裸体による記念碑を量産したゲオルグ・コルベ、そしてアウトバーン工事記念碑(実現せず、巨大な模型のみ完成)など筋肉の塊のような男たちの群像で有名な、ナチス時代を代表する彫刻家ヨゼフ・トーラク、古典的な英雄像を数多く制作し公共建築にも多く登用されヒトラーの評価が高かったアルノ・ブレーカーらが代表的な人物であろう。

建築の分野でもヒトラーの好みとナチスのイデオロギーに基づく建築物が賞賛された。バウハウス関係者らが作ったインターナショナル・スタイル(国際様式)のモダニズム建築は退廃的とされ、ドイツの風土と伝統に合った傾斜屋根の家が好ましいとされた。また政府や党のビルはアルベルト・シュペーアらによってヒトラー好みの新古典主義で建築されたが、これにはナチスドイツを古代ギリシア古代ローマに続く偉大な存在と看做されたいという欲求があった。特にシュペーアの考えた、ナチス建築は廃墟となった後もギリシア建築・ローマ建築に匹敵する美しい偉大な廃墟となるように設計されるべきという廃墟価値の理論を熱烈に支持した。

アルベルト・シュペーアの彫像を制作するアルノ・ブレーカー

こうしたナチス・ドイツの公認芸術は、同じファシズム国家でもイタリアとは大きく異なっていた。イタリアでは未来派の芸術家たちからファシズムに心酔するものが現れ、下火になって以降も党の締め付けが厳しくなるまではファシスト党のいわば公認芸術となっていた。またベニート・ムッソリーニモダニズム建築家・ジュゼッペ・テラーニを起用し、大胆な建築を党や国家のために作らせたほかエウルのような新都市も建設している。イタリアで開催されたナチス公認芸術の展覧会では、イタリアの各紙はその後退した「客間趣味」に当惑したような感想を掲載した[65]

むしろ、ナチスの芸術には、民族性重視・写実重視などの面で、ヨシフ・スターリン政権期のソビエト連邦社会主義リアリズムとの共通性が強いとされる。アルノ・ブレーカーらはソ連に招待され、ヨシフ・スターリンらからソ連でも記念碑的彫刻を作るよう要請されている。しかし、ソ連もリアリズム一辺倒だったわけではない。革命直後のソ連では抽象芸術構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドはスターリンが方針を変えるまで共産党のいわば公認芸術となっていた。ウラジミール・レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。最初の電子音楽機器テルミンが作られ、現代映画の基礎的理論であるモンタージュが生まれるなど当時のソ連は前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家が新国家の建設に参加した。例えば、共産主義の威信をかけたソビエト・パレスの計画段階ではル・コルビュジエヴァルター・グロピウスエーリヒ・メンデルスゾーンオーギュスト・ペレハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わっている。従って、終始排除したナチスとは大分異なる。

1920年代から1940年代にかけては近代美術運動の一つのピークであったが、一方で無国籍な抽象芸術を排斥しようという民族主義的美術運動との摩擦が各国で発生した。ドイツの「退廃芸術狩り」や民族主義的「公認芸術」はその例外ではない。アメリカ合衆国においてはグラント・ウッドやトーマス・ハート・ベンソンらアメリカン・シーン派(地方主義)の画家が台頭した。一方で、スターリン期のソ連では民衆の伝統を重視する社会主義リアリズムが公認芸術となり、その他の様式はナチスのように弾圧こそはしなかったが、軽視され、社会主義リアリズムの影響は欧米など世界中に及んだ。

1930年代においては、芸術に国が関与し統制する傾向があったのはドイツにとどまらない。ソ連の社会主義リアリズムを始め、アメリカでもニューディール政策の一環として連邦美術計画など国が失業芸術家を雇って作品を制作させる政策が行われた。




  1. ^ ニコラス p.16、Barron 1991, p.26
  2. ^ Adam 1992, p. 33
  3. ^ 関楠生 pp..27-30
  4. ^ Adam 1992, pp. 29-32.
  5. ^ ニコラス p.17
  6. ^ Grosshans 1983, p. 9.
  7. ^ 関楠生 p.34
  8. ^ 勅使河原純 pp..48-49
  9. ^ ニコラス p.16
  10. ^ ニコラス p.17
  11. ^ 関楠生 pp..24-25
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  13. ^ 関楠生 p.110
  14. ^ 関楠生 pp..45-46
  15. ^ 1942年3月23日の『食卓談話』より。関楠生 p.110, 勅使河原純 p.54
  16. ^ 勅使河原純 pp..50-53
  17. ^ 関楠生 pp..202-210
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  19. ^ 関楠生 pp..30-33, ニコラス p.18
  20. ^ 関楠生 pp..35-36
  21. ^ ニコラス p.15
  22. ^ 関楠生 pp..36-46
  23. ^ 関楠生 p.34
  24. ^ 関楠生 pp..46-48
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  27. ^ ニコラス pp..20-21
  28. ^ ニコラス p.21
  29. ^ ニコラス p.26, 関楠生 pp..56-62, p.72
  30. ^ 関楠生 pp..75-81
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  43. ^ 関楠生 p144, 勅使河原純 pp..57-58
  44. ^ 関楠生 pp..144-146
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  46. ^ 関楠生 pp..176-179
  47. ^ 関楠生 pp..154-172
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  52. ^ ニコラス p.32
  53. ^ 関楠生 pp..152-154, ニコラス p.32
  54. ^ 関楠生 pp..172-176
  55. ^ 関楠生 pp..179-180
  56. ^ 関楠生 p.181
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  58. ^ 関楠生 pp..90-93
  59. ^ 関楠生 p.103
  60. ^ 関楠生 pp..104-107, ニコラス p.30
  61. ^ 1942年3月23日、『食卓談話』
  62. ^ 関楠生 p.110, p.143
  63. ^ 関楠生 pp..112-115
  64. ^ 関楠生 pp..115-126
  65. ^ 関楠生 pp..49-50
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  68. ^ 関楠生 pp..184-185
  69. ^ 関楠生 pp..185-186、ニコラス p.34
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  71. ^ 関楠生 p.187
  72. ^ 関楠生 p.187、ニコラス p.36
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  75. ^ 関楠生 p.192
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  77. ^ 関楠生 pp..228-251
  78. ^ 関楠生 pp..233-234
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  80. ^ 関楠生 pp..237-238
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