退廃芸術 絵画嵐(ビルダーシュトゥルム)

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退廃芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 09:08 UTC 版)

絵画嵐(ビルダーシュトゥルム)

1930年、テューリンゲン

州政権によって塗りつぶされたシュレンマーの手によるヴァイマル応用芸術アカデミーの壁画
その後1979年に復元された。

ナチスの支持が高まり、かれらが政権に就き始めると、早速近代美術を公の場から追放しようという「絵画嵐」(Bildersturm、元の意味は宗教改革時の聖像破壊運動を指していた)が始まった。

1929年、ナチスはドイツ中部の農村地帯、テューリンゲン州で11%の得票を得た。ヒトラーは連立交渉の難航を受けてヴァイマルに赴き、地元有力者を前にナチスの経済政策を説明して感服させ[18]、ナチスを泡沫政党と見ていた諸政党も連立相手としてナチスを考えざるを得なくなった。1930年1月、州の内務大臣・国民教育大臣にナチス推薦のヴィルヘルム・フリックが選出されると、彼はローゼンベルクの「ドイツ文化のための闘争同盟」と組み、「ドイツで強まる文化面での黒人種など他民族の影響により、ドイツの民族性や道徳が基盤から崩れようとしている」という文章を4月に官報に載せ、州の芸術系大学を改編してバウハウス色の一掃のためその長官にシュルツェ=ナウムブルクを任命した。シュルツェ=ナウムブルクは持論の「北方的なものの賛美、東方的なものの侮蔑」に基づき、イーゴリ・ストラヴィンスキーなど近代の音楽家の楽曲の演奏を禁じたほか、10月3日、大学内のオスカー・シュレンマー(元バウハウス教授)の壁画を塗りつぶし、ヴァイマル城内美術館の展示室からカンディンスキー、ノルデ、ココシュカなどの近代絵画・彫刻70点を撤去させた[19]

1931年4月にフリック内務相は共産党によって解任され、シュルツェ=ナウムブルクも職を追われる。しかし、これは後にドイツに吹き荒れる「絵画嵐」の始まりに過ぎなかった。この時期、「ドイツ文化のための闘争同盟」はザクセン・ツヴィッカウで近代美術を購入した美術館長を解雇させることに成功した。

1933年、バーデン

1932年末の国会選挙でついにナチスは第一党となり、1933年には独裁権力を掌握し、社会や国民の強制的同一化を推し進めた。フリックは今度はドイツ国の内務大臣となり、シュルツェ=ナウムブルクも復権、ファイステル=ローメーダは『ドイツ芸術通信』で、ドイツ中の美術館からコスモポリタン的、ボルシェヴィキ的作品を一掃し、その作品と購入金額を公衆の前に晒したうえで購入に責任のある美術館長を首にし、作品は焼却して以後これらの作家や美術館員が二度と復権できないようにすることを求めた[20]。3月1日からシュトゥットガルトで開かれたオスカー・シュレンマー回顧展は、ナチスが国会の過半数を獲得した選挙とほぼ同時期の開始であった。この展覧会はナチス系の機関紙からゴミの山だという罵倒を受け、その12日後に急遽閉幕された[21]

これに呼応して同年、ドイツ南西部のバーデン・カールスルーエで、美術学校長でありファイステル=ローメーダとも親しい画家のハンス・アドルフ・ビューラーが分離派展開催を阻止、そのかわりに1933年4月8日から『1918年から1933年までの政府公許芸術』展を開催した[22]。この展覧会では表現主義など同時期の前衛的な芸術活動による作品を、誹謗する目的で展示した展覧会だった。これは青少年に悪影響を与える、として18歳以下入場禁止にされ意図的に一般の好奇心を高め、さらに各作品の横に購入価格を加えて、敗戦後の経済危機にもかかわらず政府や美術館が無駄遣いをしたことを強調した。しかもハイパーインフレ時代の巨額の数字をわざとそのまま展示したため、狙い通り観客やマスコミの間に美術館行政に対する怒りが広がった。これらの手法は1937年のミュンヘンの『退廃芸術展』でも行われている[23]

プレ退廃芸術展とプレ大ドイツ芸術展

ベルリンのウンター・デン・リンデンにある皇太子宮殿、1930年代までは世界有数の近代美術館であった
ゴッホの『ドービニーの庭』、1929年にベルリンのナショナルギャラリーが取得、1937年に押収され後にオランダのコレクターに売却、現在ひろしま美術館所蔵

この後、同様に近代美術の収蔵品を晒し者にして糾弾する展覧会がドイツ全土で開かれた。ケムニッツでは『われらの魂から生まれたのではない芸術』のタイトルのもと開催された。ハレニュルンベルクでは『恐怖美術館』と銘打たれた。1935年9月にはドレスデンでその名も『退廃芸術展』が開催され、全国を巡回した。これらは手法も目的も1937年のミュンヘン『退廃芸術展』に先立つ展覧会であった[24]

さらに、これに対して望ましい作品を展示する、1937年のミュンヘンの『大ドイツ芸術展』を先取りする展覧会も各地で開かれている。1934年に「ドイツ文化のための闘争同盟」の一部によりハレで開催された展覧会では、退廃芸術と純粋ドイツ芸術を同時に展覧した。ハンス・アドルフ・ビューラーとファイステル=ローメーダはカールスルーエで『純粋ドイツ美術巡回展』を開催している。これらは「一旦退廃美術に眼をくらまされたドイツ民族に、純粋ドイツ美術の作家たちの作品を見せて民族の本質と偉大さを悟らせる」ためのものであった[25]

また各地の美術館長・職員・美術学校教員ら(その多くが国家公務員であった)が、「文化ボルシェヴィズム」作品購入の責任を問われ、新しい「職業官吏制度復活法」によってナチ寄りの職員に差し替えられて職を追われた[26]。特にベルリンナショナル・ギャラリーが槍玉に上った。ナショナル・ギャラリーは君主制崩壊後の1919年、保守派の美術評論家の反対の中、かつての皇太子宮殿を近代美術専門館へと模様替えし、世界の公立美術館・近代美術館から手本とされるような近代美術館を作り上げていた。しかし1933年、1909年の館長就任以来、同時代美術の擁護者として知られた館長ルートヴィヒ・ユスティらが異動・解雇させられた[27]。ユスティはかねてから「絵画嵐」の中で攻撃を受けていたが、19世紀のイタリアの画家ミケッティの作品と「イタリア人無名現代画家」の作品15点を交換したことが非難を浴びた(「無名の現代画家」とは、ジョルジョ・デ・キリコアメデオ・モディリアーニたちのことである)。ユスティ以後ナショナル・ギャラリーの館長は次々に代わったが、館長たちは表現主義者をドイツ民族の芸術の系譜に位置づけるような展示方法や講演などによって民族主義者から近代美術を弁護し、あるいは目立つ前衛画家の作品を少しずつ収蔵庫にしまいながら表現主義や海外作家らの展示を続けていた[28]ベルリンオリンピックの際には中世から近代美術に至るまでのドイツ芸術の特別展が組まれ、国内外の観客が多数詰め掛けた。しかしついにオリンピック後の1936年8月、ナショナル・ギャラリー近代絵画館は閉鎖され、数日内にドイツ国内の美術館における近代美術の展示は禁止された[29]

画家でジャーナリストのヴォルフガング・ヴィルリヒは1937年、『芸術神殿の清掃』という著書を出した。後に国民啓蒙・宣伝省に派遣され各地で「退廃芸術作品狩り」を行う彼は、この本で近代美術家の多くを健康でも誠実でもない退廃芸術家だと罵ったが、その書物の章立てや構成はこの年のミュンヘン『退廃芸術展』の展覧会構成に反映されたと思われる[30]




  1. ^ ニコラス p.16、Barron 1991, p.26
  2. ^ Adam 1992, p. 33
  3. ^ 関楠生 pp..27-30
  4. ^ Adam 1992, pp. 29-32.
  5. ^ ニコラス p.17
  6. ^ Grosshans 1983, p. 9.
  7. ^ 関楠生 p.34
  8. ^ 勅使河原純 pp..48-49
  9. ^ ニコラス p.16
  10. ^ ニコラス p.17
  11. ^ 関楠生 pp..24-25
  12. ^ 関楠生 p.45
  13. ^ 関楠生 p.110
  14. ^ 関楠生 pp..45-46
  15. ^ 1942年3月23日の『食卓談話』より。関楠生 p.110, 勅使河原純 p.54
  16. ^ 勅使河原純 pp..50-53
  17. ^ 関楠生 pp..202-210
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  19. ^ 関楠生 pp..30-33, ニコラス p.18
  20. ^ 関楠生 pp..35-36
  21. ^ ニコラス p.15
  22. ^ 関楠生 pp..36-46
  23. ^ 関楠生 p.34
  24. ^ 関楠生 pp..46-48
  25. ^ 関楠生 pp..48-50
  26. ^ ニコラス pp..18-19、関楠生 pp..62-64
  27. ^ ニコラス pp..20-21
  28. ^ ニコラス p.21
  29. ^ ニコラス p.26, 関楠生 pp..56-62, p.72
  30. ^ 関楠生 pp..75-81
  31. ^ 関楠生 pp..9-11
  32. ^ 関楠生 p.19
  33. ^ 関楠生 pp..38-43
  34. ^ 関楠生 p.16
  35. ^ 関楠生 pp..11-18
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  37. ^ 関楠生 pp..65-70
  38. ^ ニコラス p.27, 関楠生 p.73
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  40. ^ 関楠生 pp..75-81
  41. ^ 関楠生 p.81
  42. ^ 関楠生 pp..82-86, ニコラス p.27-29, p.33
  43. ^ 関楠生 p144, 勅使河原純 pp..57-58
  44. ^ 関楠生 pp..144-146
  45. ^ 関楠生 pp..146-149、勅使河原純 pp..60-61
  46. ^ 関楠生 pp..176-179
  47. ^ 関楠生 pp..154-172
  48. ^ 関楠生 p.168
  49. ^ 関楠生 p.165
  50. ^ 関楠生 p.149
  51. ^ 関楠生 pp..151-152
  52. ^ ニコラス p.32
  53. ^ 関楠生 pp..152-154, ニコラス p.32
  54. ^ 関楠生 pp..172-176
  55. ^ 関楠生 pp..179-180
  56. ^ 関楠生 p.181
  57. ^ 関楠生 pp..87-90
  58. ^ 関楠生 pp..90-93
  59. ^ 関楠生 p.103
  60. ^ 関楠生 pp..104-107, ニコラス p.30
  61. ^ 1942年3月23日、『食卓談話』
  62. ^ 関楠生 p.110, p.143
  63. ^ 関楠生 pp..112-115
  64. ^ 関楠生 pp..115-126
  65. ^ 関楠生 pp..49-50
  66. ^ ニコラス pp..22-24
  67. ^ ニコラス p.24, 関楠生 pp..220-225
  68. ^ 関楠生 pp..184-185
  69. ^ 関楠生 pp..185-186、ニコラス p.34
  70. ^ 関楠生 p.186、ニコラス pp..34-35
  71. ^ 関楠生 p.187
  72. ^ 関楠生 p.187、ニコラス p.36
  73. ^ 関楠生 p.189
  74. ^ ニコラス、pp..11-14, 関楠生 pp..189-192
  75. ^ 関楠生 p.192
  76. ^ 関楠生 pp..226-228
  77. ^ 関楠生 pp..228-251
  78. ^ 関楠生 pp..233-234
  79. ^ 関楠生 p.239
  80. ^ 関楠生 pp..237-238
  81. ^ 関楠生 pp..224-250





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