各地への巡回と動員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:54 UTC 版)
この展覧会はさらに多くのドイツ中の都市を巡回した。これにあたり、ツィーグラーらはドイツ全土から退廃芸術を一掃し巡回中の展覧会に加えるべく、新たな委員会を結成して再度100以上の美術館に押しかけ、さらに多くの近代美術作品を押収した。退廃美術展の巡回を希望した都市の数は65にのぼり、ベルリン、ライプツィヒ、デュッセルドルフ、ザルツブルク、ハンブルク、ヴァイマル、ウィーン、フランクフルト、ハレなど13都市へ1941年までかけて巡回した。ベルリンではミュンヘンの翌年、1938年2月から旧日本大使館の建物で開催された。ベルリンでは新即物主義など社会批判的な作品が槍玉にあがり、またベルリンではじめて、ハンス・プリンツホルン博士(Hans Prinzhorn)が収集してきた精神病患者の絵(後に「アウトサイダー・アート」と呼ばれるもの)と近代美術の絵画を並べその類似性を喧伝し「近代美術の中の病理性」を示そうとする「比較展示」が行われた。各都市でも市民に対し展覧会を見るよう大規模な宣伝がなされた。 第二次世界大戦の勃発や、話題になった作品をオークションで売却するため展示品からはずしたことなどを受け観客は徐々に減ったが、巡回先でも計100万人を動員し、最終的には300万人が退廃芸術展を見た。
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