各地の鬼婆伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 14:35 UTC 版)
安達ヶ原と同様の鬼婆の伝承は、埼玉県さいたま市にも「黒塚の鬼婆」として伝わっている。江戸時代の武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、祐慶が当国足立ヶ原(あだちがはら)で黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号したとあり、前述の平兼盛の短歌もこれを詠んだものだとある。東光寺(さいたま市)の撞鐘の銘文にも、かつて安達郡にあった黒塚という古墳で、人々を悩ませていた妖怪を祐慶が法力で伏したとある。寛保時代の雑書『諸国里人談』によればこちらが伝説の本家とされ、昭和以前には、埼玉のほうが東京に近く知名度が上ということもあり、埼玉を本家と支持する意見が多かった。歌舞伎の『黒塚』を上演する際に俳優がこちらを参詣することもある。 昭和初期には、福島の安達ヶ原と埼玉の足立ヶ原の間で、どちらが鬼婆伝説の本家かをめぐる騒動が勃発した。これに対し、埼玉出身の民俗学者・西角井正慶が埼玉側を「自分たちの地を鬼婆発祥の地とすることは、この地を未開の蛮地と宣伝するようなものだから、むしろ譲ったほうが得」と諭して埼玉側を退かせたことで、騒動は幕を閉じた。かつて黒塚にあった東光寺も後にさいたま市大宮区へ移転しており、埼玉の黒塚のあった場所は後の宅地造成により見る影もなくなっている。 また、岩手県盛岡市南方の厨川にも安達ヶ原の鬼婆伝説があり、ここでは鬼婆の正体は平安中期の武将・安倍貞任の娘とされる。奈良県の宇陀地方にも同様の伝説があり、東京都台東区の「浅茅ヶ原の鬼婆」もこれらと同系統の伝説である。安政年間の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻『土佐お化け草紙』にも、「鬼女」と題して「安達が原のばヽ これ也」とある。 天狗研究家・知切光歳の著書『天狗の研究』によれば、東光坊祐慶の「東光坊」は、熊野修験の本拠地である熊野湯の峯の東光坊に由来するもので、この地の山伏は修行で各地を回る際、「那智の東光坊祐慶」と名乗っていたらしいことから、祐慶を名乗る山伏たちが各地で語る鬼婆伝説がもととなって、日本各地の鬼婆伝説や黒塚伝説が生まれたものと見られている。 また、前述の埼玉の鬼婆伝説については、氷川神社の神職の人物が、禁をやぶって魚や鳥を捕えて食べようとした際、鬼の面で素顔を隠したことが誤伝されたとの説もある。
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