ローゼンベルク対ゲッベルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:54 UTC 版)
「退廃芸術」の記事における「ローゼンベルク対ゲッベルス」の解説
ナチス思想部門に関わる者同士の対立もあった。ローゼンベルクはかねてから退廃芸術一掃を叫んでいたが、一方ゲッベルスは北方的なエミール・ノルデやエドヴァルド・ムンクの作品を好み、彼が創刊した新聞「デア・アングリフ」でも表現主義を擁護し続けるなど、近代芸術の中でもドイツ独自的な傾向の作品を好んでいた。また1934年にはイタリア政府主催の未来派展を支援し、同年には芸術制作の自由を論文で述べたばかりか、1935年3月には表現主義も含む大規模なベルリン美術展をミュンヘンで開く計画も進めていた。しかしこの展覧会は反退廃芸術勢力によって中止され、ヒトラーもローゼンベルク本人を嫌いつつもその提案を支持していたため、ゲッベルスは自らの不利を悟り、やがて「改心」して強烈に近代美術を一掃する作業に取り掛かる。この後9月、ドレスデンの退廃芸術展が始まり全国に巡回したが、党は「表現主義はユダヤの発明であり、党員はこれらの展覧会を必ず見るように」という指示を各地に下した。 1936年11月、ゲッベルスは「この4年間、芸術界の振興に尽力する傍ら、芸術界がナチスに順応することを期待したが改善の気配がない。芸術家の間では無責任な批評家に対する不満も厳しい」とし、宣伝省が認める「芸術報告者」だけに署名付きでの「芸術報告」執筆・掲載を認める「芸術批評の禁止」を指令した。
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