退廃芸術 ナチス・ドイツの芸術政策

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退廃芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 09:08 UTC 版)

ナチス・ドイツの芸術政策

1937年までに、ナチスの芸術政策は、上に述べたような民間右翼美術団体や党内組織に歩調を合わせ、退廃芸術一掃の方向で確立した。しかしそれまでには党内でも芸術政策をめぐり紆余曲折があり、文芸や思想分野のように、政権獲得後に反対勢力を一掃するようには行かなかった。

美術家に対する処遇

1933年5月10日のベルリンでの焚書

ナチスは1933年の政権獲得後、プロイセン芸術院(芸術アカデミー)の文学部門から反ナチ的なトーマス・マン小説家詩人多数を追い出し、会員を一新させた[31]。また1933年5月10日には、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスと大学生らによって「非ドイツ的著作物の焚刑」の名でドイツ各地で焚書が行われた。しかし美術部門では、芸術院からの前衛作家追放はなかなか進まなかった。1点物である絵画・彫刻はコピーが大量に発行される書籍より影響が少なく、反ナチ的かどうかの判別もしづらいためであった[32]。まず画壇の巨匠マックス・リーバーマンをはじめユダヤ人芸術家らがその人種のゆえに追放され[33]、ディックスやケーテ・コルヴィッツブルーノ・タウトらも早期に退会させたものの[34]、「退廃的な」美術家や建築家がプロイセン芸術院から追放されたのは1937年7月のことになる[35]

これに対し1933年、ナチス政権により帝国文化院(Reichskulturkammer)が創設され、その下に置かれた全国造形美術院(Reichskammer der bildenden Künste)によって「退廃芸術家」も含め主だった芸術家が組織され、統制の対象となった。この造形美術院で1936年12月に総裁になったのはヒトラーに高く評価されていた画家、アドルフ・ツィーグラー(1892年-1959年)であった。1920年代前半にヒトラーと会い、1920年代末にはナチスの造形美術部門責任者となっていた彼は、古典的で精緻な人物像を得意としていたが、女性の裸体の肉体や骨格などの再現ぶりに比べてその表情や姿勢の描写は硬く躍動感には欠けており、ドイツのどの美術館でも優れた作家とはみなされていなかった。しかし彼はナチスの後押しで1933年以降美術界の指導者にのし上がり、「ドイツ精神を代表する作家」と称えられ、その作品は高額で売られた。彼は自分を取り立ててくれたナチスのため、退廃芸術家への罵倒や美術館からの退廃芸術品狩りを行うことになる。ほかにも、農民や農村風景などを描く風俗画家など、19世紀以降の近代美術の進展で社会の片隅に追いやられた画家たちが突如高い地位に引き上げられ、彼らは積極的に退廃美術攻撃に力を入れた。

ローゼンベルク対ゲッベルス

ナチス思想部門に関わる者同士の対立もあった。ローゼンベルクはかねてから退廃芸術一掃を叫んでいたが、一方ゲッベルスは北方的なエミール・ノルデエドヴァルド・ムンクの作品を好み、彼が創刊した新聞「デア・アングリフ」でも表現主義を擁護し続けるなど、近代芸術の中でもドイツ独自的な傾向の作品を好んでいた[36]。また1934年にはイタリア政府主催の未来派展を支援し、同年には芸術制作の自由を論文で述べたばかりか、1935年3月には表現主義も含む大規模なベルリン美術展をミュンヘンで開く計画も進めていた[37]。しかしこの展覧会は反退廃芸術勢力によって中止され、ヒトラーもローゼンベルク本人を嫌いつつもその提案を支持していたため、ゲッベルスは自らの不利を悟り、やがて「改心」して強烈に近代美術を一掃する作業に取り掛かる。この後9月、ドレスデンの退廃芸術展が始まり全国に巡回したが、党は「表現主義はユダヤの発明であり、党員はこれらの展覧会を必ず見るように」という指示を各地に下した。

1936年11月、ゲッベルスは「この4年間、芸術界の振興に尽力する傍ら、芸術界がナチスに順応することを期待したが改善の気配がない。芸術家の間では無責任な批評家に対する不満も厳しい」とし、宣伝省が認める「芸術報告者」だけに署名付きでの「芸術報告」執筆・掲載を認める「芸術批評の禁止」を指令した[38]

ナチスの芸術への貢献度

ヒトラー自身の画業に対する執心にもかかわらず、芸術という分野自体が、ナチスの宣伝政策の中で軽く見られていたことも事実である。1937年におのおの分割されるまで、国民啓蒙・宣伝省内では第六部が「演劇音楽美術部」と一括りにされており、第七部「映画部」の独立に比べると、美術や音楽といった大衆に複製の行き渡りにくい「オールド・メディア」に対する軽視は歴然だった。ナチスが力を入れたものは、テレビ・ラジオ・映画などであり、旧来の芸術に関しては全くと言っていいほど貢献するところがなかった。ゆえに、ナチスが残した芸術といえばプロパガンダ用のポスター、圧倒的なビジュアルインパクトを持った独裁者の舞台となるべき巨大建築や、レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』などといった記録映画であり、見るべき絵画や聞くべき音楽はナチス政権下ではほぼ登場していない。




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