退廃芸術 『退廃芸術展』

退廃芸術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 09:08 UTC 版)

『退廃芸術展』

美術館の大掃除

1937年4月、宣伝省はナチス政権獲得4周年と、経済・軍事・政治での四カ年計画の功績を記念する展覧会を企画し、同時に退廃美術を誹謗する展覧会も開こうとした[39]。彼らは全国造形美術院の紹介で『芸術神殿の清掃』を出版したばかりのヴォルフガング・ヴィルリヒらをナショナル・ギャラリーなど各地の美術館に派遣し作品をリストアップさせようとしたが、各地の美術館の抵抗にあったほか、宣伝省や全国造形美術院の間で「誰から誰までを退廃芸術家と見るか」で議論になり、計画は頓挫した[40]

これに対し、6月30日、ゲッベルスはミュンヘンで7月から予定されていたドイツ民族の芸術を一堂に集めた『大ドイツ芸術展』に退廃芸術の展覧会をぶつけるアイデアを思いつく[41]。ゲッベルスはツィーグラーと相談し、その日のうちにヒトラーの許可を得たことで、後世に悪名高い『退廃芸術展』が動き出した。6月30日のうちにツィーグラーには、ドイツ国、州、市町村が所有する1910年以降の退廃作品を展覧の目的で搬出できるという権利が与えられた。ツィーグラーはヴィルリヒや他の画家、宣伝省官僚ら、自身も入れて計5人の委員会(後に、死刑執行委員会とあだ名されることになる)を結成し、ヴィルリヒらが春に作ったリストをもとにベルリンハンブルクマンハイムデュッセルドルフフランクフルトドレスデンブレスラウ、その他ドイツ各地の20ヶ所以上の美術館を訪問し、ポスト印象派、表現主義、新即物主義、幾何学的抽象などの作品を押収した。多数の美術館員がコレクションを守るために様々な手段で押収を拒否したりコレクションを隠し通したりしたが、結局押収されてしまった美術品は絵画5,000点、版画12,000点など膨大な数に登った[42]。展覧会の発案から委員会結成、作品押収、そして7月19日の退廃芸術展本番開催までわずか3週間しかかからなかった。退廃芸術家とされた者はドイツ人ばかりでなく、多数のフランス人、オーストリア人、ポーランド人、ロシア人、スイス人、ノルウェー人などが含まれていた。近代美術が国を超えた広がりを見せていたことを反映するが、ナチスの糾弾の対象である「退廃芸術」の枠組みも、ドイツを超え全ヨーロッパに及ぶにいたった。

展覧会開幕と異常な展示方法

大ドイツ芸術展がヒトラー臨席のもと、ミュンヘンに新築された巨大な美術展示場「ドイツ芸術の家」で大々的に開催された翌日、1937年7月19日、退廃美術展は「ドイツ芸術の家」から近くにあるミュンヘン大学付属考古学研究所の2階建ての建物で始まった[43]

建物はもともと石膏模型の収納庫で、美術作品の展示には向かない貧相な建物だったが、いかにも貧弱な間仕切りが展示用に用意され、表現主義を中心とする作品は乱雑に掛けられており、額からはずされてキャンバスがむき出しにされたり、壁から紐でぶら下げられていた物もあった。わざと劣悪な条件で展覧させるのは、宣伝省による意図的なものであった。絵の解説は紙に手書きするか壁にじかに描くという乱暴な方法で、ほかにも壁には各芸術家の発言からの抜粋や、主催者による悪意的な煽り文句が書き殴られていた。先行する展覧会同様、18歳未満は立ち入り禁止といういかがわしい雰囲気が演出され、作品には購入時の価格(ヴァイマル共和制初期のインフレ時の購入品は、その際の数十兆マルクという巨大な金額)が添えられた[44]

ヒトラーはオープン前に来館し一瞥しただけで感想を漏らさなかった。ごく簡単な開会式では全国造形美術院総裁・ツィーグラーが退廃芸術を悪罵する開会演説をした。いわく、国民のなけなしの税金で、民族に奉仕すべき美術館やその職員たちが出来損ないの作品を大量に買い集めて自己満足に浸ったことに怒りを覚える。どの絵や彫刻を見ても、精神病の働きを感じるしかなく、彼らの健康な作品を探すことはできなかった。これは過ぎ去った退廃の時代の記録であり、未だドイツ全土の美術館に残るこれらのがらくたを早く一掃し、各美術館の展示室をまっとうな民族的な作家に与えなければならない。彼はこう演説を締めくくった。「ドイツ民族よ来たれ!そして自ら判断せよ![45]

展覧会の構成

観客激増を受け展覧会期末に急遽、32ページのパンフレットが作成されたが、この冊子での作品の分類は展覧会場の部屋分けとは一致していない[46]

ミュンヘンでの展覧会は、建物の二階から始まっていた[47]。狭い階段を上がった先には、第一室に掛けられた巨大で歪んだキリスト磔刑像の木製彫刻(ルートヴィヒ・ギース作)が眼に飛び込み、部屋に入る観客たちがこれに出くわして震え上がるように意図されていた。この第一室はほかにノルデの宗教画も並ぶ、宗教に対する芸術家による冒涜をテーマとした部屋だった。

第二室はマルク・シャガールらユダヤ人芸術家の絵が並び、彼らを蔑むための部屋だった。

続く大きな第三室は、表現主義や新即物主義やダダイスムの絵を並べ、いかに彼らがドイツ女性を愚弄し娼婦のように描いたか、いかに国防義務や軍人や大戦英雄をあざけったか、いかに黒人芸術がユダヤ人たちの理想とされたか、などいくつかのテーマが設けられた。

第四室以降には特にテーマはなかったが、第五室にはとくにカンディンスキーなどの抽象画や表現主義の風景画が「狂気や病んだ精神の見た風景」と言う煽り文句とともに並べられた。第六室はここまで壁に書かれていた煽り文句はなく、作品の購入金額と美術館名が淡々とならんでいた。第七室はレームブルックの彫刻やさまざまな絵画が並び、「こうした人物がこれまでドイツで教鞭をとっていた」と書かれていた。この下の1階にも彫刻・絵画のほか、版画や本などが展示されたが、オープンが開会式の3日後に遅れたほか、2階のような印象的な分類や煽り文句はなく、ここに気付かず通り過ぎた観客も多く記録も余り残っていない。

壁に書かれた多くの煽り文句には、例として次のようなものがあった。

  • 共産党中央の指令下で、神聖なものを横柄にあざける (第一室)
  • ユダヤ人種魂の暴露 (第二室)
  • ドイツ女性に対する侮辱 (第三室)
  • 理想 - それは白痴と娼婦 (第三室)
  • 美術館のお偉方はこんなものも「ドイツ人民の芸術」と呼んだ (第五室)

会期中に第七室を中心に閉鎖や入れ替えが多くあったとみられるほか、抗議を受けて会場から撤去された作品もあった。展示されていたムンクの作品は母国ノルウェーの抗議があったと思われ、会期中に姿を消している[48]。またフランツ・マルクの大作『青い馬の塔』については、彼は第一次大戦で出征して戦死し、鉄十字勲章を受けた英雄ではないかとの退役軍人たちの抗議があったため、以後の巡回先では撤去された[49]

来館者増加と宣伝の大成功

1938年2月27日の日曜の午後、「ドイツ芸術の家」で開催された退廃芸術展を観に訪れたゲッベルス宣伝相

宣伝省はこの展覧会をぜひ見るよう各新聞を通して大々的に盛り上げた。その結果詰め掛けたミュンヘンや各地の市民の数は膨大になった。狭い会場には1日で2万から3万人、多い日で4万人を超え、イギリスなど海外からも多くの観客を集め、建物を取り囲む入場待ちの長蛇の列ができ、2階に上がる狭い階段を埋めた。11月30日までの4ヶ月で展覧会場に押し寄せた観客数は200万人超という驚くべき数字になった[50]

これは隣で開かれた公認芸術展・大ドイツ芸術展の3ヶ月70万人を大幅に上回る。かといってゲッベルスも宣伝省もこれに腹を立てるどころか、むしろ近代美術を公開処刑するという宣伝が思った以上に成功したことに満足した[51]。会場には、普段美術館を訪れたことのない市民も怖い物見たさや好奇心、動員で訪れた。観客の中には、芸術の処刑に際して、作品を眼に焼き付けて別れを告げに来た画学生や愛好者もある程度いたほか、ハノーファーのシュプレンゲル夫妻のようにここでノルデの作品を見て逆に感動し、以後彼のコレクターになり戦時中も生活を支え続けた人も現れた[52]。しかし、大部分の観客は党によって地に引きずり下ろされた芸術家たちのざまを見るために来場しており、作品の余りの過激さと購入金額の高さに怒り心頭に発しており、ため息や怒りの声が上がるなど集団心理に支配された状態で、宣伝省の意図通りの結果となった[53]。ドイツの各紙もこの展覧会を取り上げ、退廃芸術のあまりの「質の低さ」への怒りと、これがナチスによって一掃されたことを賛美する記事があふれた[54]

各地への巡回と動員

ザルツブルクに巡回した退廃芸術展。1938年8月

この展覧会はさらに多くのドイツ中の都市を巡回した。これにあたり、ツィーグラーらはドイツ全土から退廃芸術を一掃し巡回中の展覧会に加えるべく、新たな委員会を結成して再度100以上の美術館に押しかけ、さらに多くの近代美術作品を押収した。退廃美術展の巡回を希望した都市の数は65にのぼり、ベルリン、ライプツィヒ、デュッセルドルフ、ザルツブルク、ハンブルク、ヴァイマル、ウィーン、フランクフルト、ハレなど13都市へ1941年までかけて巡回した[55]。ベルリンではミュンヘンの翌年、1938年2月から旧日本大使館の建物で開催された。ベルリンでは新即物主義など社会批判的な作品が槍玉にあがり、またベルリンではじめて、ハンス・プリンツホルン博士(Hans Prinzhorn)が収集してきた精神病患者の絵(後に「アウトサイダー・アート」と呼ばれるもの)と近代美術の絵画を並べその類似性を喧伝し「近代美術の中の病理性」を示そうとする「比較展示」が行われた[56]。各都市でも市民に対し展覧会を見るよう大規模な宣伝がなされた。

第二次世界大戦の勃発や、話題になった作品をオークションで売却するため展示品からはずしたことなどを受け観客は徐々に減ったが、巡回先でも計100万人を動員し、最終的には300万人が退廃芸術展を見た。

退廃音楽

詳細は退廃音楽を参照




  1. ^ ニコラス p.16、Barron 1991, p.26
  2. ^ Adam 1992, p. 33
  3. ^ 関楠生 pp..27-30
  4. ^ Adam 1992, pp. 29-32.
  5. ^ ニコラス p.17
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  9. ^ ニコラス p.16
  10. ^ ニコラス p.17
  11. ^ 関楠生 pp..24-25
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  13. ^ 関楠生 p.110
  14. ^ 関楠生 pp..45-46
  15. ^ 1942年3月23日の『食卓談話』より。関楠生 p.110, 勅使河原純 p.54
  16. ^ 勅使河原純 pp..50-53
  17. ^ 関楠生 pp..202-210
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  19. ^ 関楠生 pp..30-33, ニコラス p.18
  20. ^ 関楠生 pp..35-36
  21. ^ ニコラス p.15
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  23. ^ 関楠生 p.34
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  26. ^ ニコラス pp..18-19、関楠生 pp..62-64
  27. ^ ニコラス pp..20-21
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  30. ^ 関楠生 pp..75-81
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  38. ^ ニコラス p.27, 関楠生 p.73
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  43. ^ 関楠生 p144, 勅使河原純 pp..57-58
  44. ^ 関楠生 pp..144-146
  45. ^ 関楠生 pp..146-149、勅使河原純 pp..60-61
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  47. ^ 関楠生 pp..154-172
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  51. ^ 関楠生 pp..151-152
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  53. ^ 関楠生 pp..152-154, ニコラス p.32
  54. ^ 関楠生 pp..172-176
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