竹刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/05 07:42 UTC 版)
安全性と威力
竹刀は武器ではなく、安全性を高めた稽古用具であるが、防具の上から打たれても打ち身、脳震盪などが起こることもある。突き技は特に危険であることから、小中学生の試合では禁止されている。また、竹刀はささくれやひび割れが発生する。手入れや点検が不十分な竹刀は、稽古中に裂けて顔面に刺さるなどして、最悪の場合死亡事故に至る。
歴史上では次のような逸話がある。
- 事実かは疑わしい記述ではあるが、江戸時代初期の軍学書『甲陽軍鑑』には、前原筑前という武術の達人(当著に「古今未曾有の手練なり」と評される小幡虎盛の家臣)が、約400メートル離れた場所においた兜に走って行き、竹刀で打ち砕き、「実に不測ふしぎの術にてぞありける」と記される。また、紙縒を唾で鴨居に貼り付け、それを竹刀でいくつにも切って落としたと記述される。竹刀の形式が統一されていない時代ゆえ、どのような竹刀を用いたかは記されておらず、伝説の域を脱しない(兜や竹刀に仕掛けがあるとも考えられる[注釈 6])が、創作としても、竹刀で鉄兜を砕いたと記述される希な人物である。
- 江戸時代後期の剣客、大石進と長沼無双右衛門の試合で、大石の突きが長沼の面金を破り、眼球が飛び出す重傷を負ったという。ただし当時の面金は個人が自作していたため、現代の科学技術で作られた面金とは強度が異なる。
- 江戸時代末期(幕末)の剣客、上田馬之助は竹製の胴を竹刀で折り、四分板を突き割ったと記述される[4]。上田は廻国修業中、日向で天自然流の吉田某と立ち合うことになったが、吉田の流儀は面・籠手だけで胴をつけていなかった。胴の着用について押し問答が続いたが、上田が立木に巻き付けた竹胴を折り、さらに四分板を突き割ると、吉田はしおしおと胴をつけた[5]。
- 明治時代の榊原鍵吉の道場は「薪割り剣術」、「面金が曲がる」といわれ、強烈な打ち込みで気絶する者もいた。榊原に入門した山田次朗吉は打ち込みに耐えるため、頭を柱に打ち付けて鍛錬し、前頭部が甲羅のように硬く盛り上がった[6]。
- 明治時代、17歳の高野佐三郎は岡田定五郎との試合で喉を突かれ、袴まで血に染め昏倒した。晩年も傷が残ったという[7]。
- 明治時代末期、元新選組隊員の斎藤一は吊るした空き缶を竹刀で貫通させたとされる[8]。
注釈
- ^ 島田貞一「槍と槍術」第22回
- ^ もっとも、近年は素振り用の「竹刀型木刀」が市販されている。
- ^ 『平家物語』に記述されており、刀を模した竹製具という点では歴史が古い。現在は竹を素材にすることは少なく、樫を削ったものが多い。
- ^ 竹の刀の文献上の初見は、記・紀の神代紀に登場するコノハナサクヤヒメのお産の際にへその緒を切るのに使用されたもので、実用具である。『紀』では、竹刀と記して「あおひえ」と読ませており[1]、捨てた竹刀が竹林となったとある。この竹刀は多様な竹文化を有していた隼人と関連するものと捉えられている[2]。
- ^ 日本画の金箔を用いた技法で、雌竹を小刀で削った竹刀(ちくとう)を使う場合があり[3]、金箔を細かく切る竹刃の道具も竹刀と記す。
- ^ 例として、律令時代では勅命の影響から「漆塗りの木製兜(偽装兜)」が作られており、鉄製に偽装した兜なら砕く事は可能である(400m先に置かれたものも鉄製か判別しにくい)。竹刀の中に鉄棒を入れるなどの細工も考えられる。紙縒を切ることは特別な訓練を積まなくとも、竹刀に剃刀といった薄い刃物を仕込めば、可能な話である。
出典
- ^ 宇治谷孟『日本書紀 (上)』全現代語訳、講談社学術文庫
- ^ 門脇禎二、森浩一『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 p.187
- ^ 『日本画講座 テキスト 4 日本画の表現技法』、日本美術教育センター pp.52-53
- ^ 『日本武術神妙記』より
- ^ 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』、光文社 p.27
- ^ 堂本昭彦『明治撃剣家 風のごとく発す』、徳間文庫 pp.341-343
- ^ 堂本昭彦『高野佐三郎剣道遺稿集』、スキージャーナル
- ^ 堂本昭彦『中山博道有信館』、島津書房 pp.242-243
- ^ SPA!. “サンドマンは自堕落、自暴自棄、そして自己陶酔――フミ斎藤のプロレス読本#113【ECW編エピソード05】 | 日刊SPA!” (日本語). 日刊SPA! 2018年10月20日閲覧。
- ^ “竹刀での指導で負傷と認定、全空連が強化委員長を処分へ”. 朝日新聞. 2021年3月31日閲覧。
- ^ 神聖な竹刀 正しく使って - 47NEWS(中国新聞 2013/05/17)
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