清瀬一郎 清瀬一郎の概要

清瀬一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 04:05 UTC 版)

清瀬 一郎
きよせ いちろう
1953年
生年月日 1884年7月5日
出生地 日本 兵庫県飾磨郡夢前町(現・姫路市
没年月日 (1967-06-27) 1967年6月27日(82歳没)
出身校 京都帝国大学(現・京都大学
前職 弁護士
東京裁判日本側弁護団副団長
所属政党立憲国民党→)
革新倶楽部→)
(革新党→)
国民同盟→)
翼賛政治会→)
大日本政治会→)
日本進歩党→)
(無所属→)
改進党→)
日本民主党→)
(自由民主党→)
(無所属→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
衆議院永年在職議員
法学博士

第49-50代 衆議院議長
在任期間 1960年2月1日 - 1963年10月23日
天皇 昭和天皇

第73代 文部大臣
内閣 第3次鳩山内閣
在任期間 1955年11月22日 - 1956年12月23日

選挙区 兵庫県第4区
当選回数 14回
在任期間 1920年5月11日 - 1945年12月18日
1952年10月2日 - 1953年3月14日
1955年2月28日 - 1967年6月27日
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来歴・人物

兵庫県飾磨郡夢前町(現、姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等の他、特許事件を多く手掛けて著作物も多く、工業所有権法知的財産法)の分野においては実務・学問の両面において草分け的な存在であった。

政界入りしてからは普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。しかし1930年代以降親軍派に転向し五・一五事件の裁判において、被告側の弁護人を務めた。

1945年第二次世界大戦敗戦直後、この時点で依然日本国籍を有していた旧植民地出身者の参政権行使を恐れ、参政権を停止(実質剥奪)するよう主張した。清瀬の主張もあり、同年12月の衆議院議員選挙法改正により、参政権停止は実行された。

1946年1月、戦前の親軍転向を理由にGHQから公職追放された。極東国際軍事裁判では、日本側弁護団副団長と東條英機元首相の主任弁護人を務めたことでも知られる[1]

追放解除後も憲法改正を主張するなど典型的な戦前派の保守政治家と目されたが、清廉さを身上とするが故に政界復帰後はハト派の三木武夫と行動をともにした。衆議院議長に就任した際も「公平さを期するため」と党籍を離脱した。当時は議長・副議長の党籍離脱は慣例化しておらず、清瀬の党籍離脱は異例ともいえる。

文部大臣の在任時に、教育委員を公選制から任命制にした。それまで地方教育行政に関する制度の中核を定めていた旧・教育委員会法(昭和23年法律第170号)を廃止した上で1956年6月30日に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の公布が行われた。教育委員会の設置関係規定の施行も同日に行われた。同年10月1日からは、その他の規定もあわせて施行されている。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」は、「新・教育委員会法」などと呼ばれることもある。旧・教育委員会法は、教育委員会の委員を住民による公選としていたが、この法律では、地方公共団体の首長が地方議会の同意を経て任命することに改められた。

安保条約承認に際して会期延長を宣言する清瀬。

衆議院議長在任中の1960年6月19日から20日にかけて、衆議院本会議で日米安全保障条約(新安保条約)の採決が行われた。採決の前、日本社会党の議員や秘書団が清瀬を議長室に閉じ込めていたが、警官隊がこれを排除。清瀬は救出に来た金丸信に抱えられて議事堂に入るが、入場の際に扉に左足首(日経新聞の記事では右足首とされているが、産経新聞の写真で左足首にギプスを巻いているのが確認できる[2])をぶつけて骨折している。議長席についた清瀬はそのまま大混乱の中で会期延長を強行採決し、日付が変わった直後に条約批准案を可決させた[3]。なんとか可決にこぎつけ疲労困憊の清瀬は、ソファに横たわりながら記者らの取材を受けた[4]

黒い霧事件」など政界の汚職事件については、自民党綱紀粛正調査会会長に就任し調査、粛党答申をまとめ政界浄化を訴えた。

世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会の第5代会長であった。

1967年6月27日死去。享年83。衆議院議員選挙の当選回数は、通算14回[1]

後継者は秘書だった戸井田三郎、同じ選挙区の対立候補に同じ三木派の河本敏夫

略歴

1961年頃

  1. ^ a b 清瀬一郎「憲法改正条項私見」 1945年12月22日 | 日本国憲法の誕生”. www.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2019年1月19日閲覧。
  2. ^ INC, SANKEI DIGITAL. “揺れた日本の記憶 秘蔵写真でたどる「60年安保」”. 産経フォト. 2019年1月22日閲覧。
  3. ^ 身代わり出馬でトップ当選(政客列伝 金丸信)”. 日本経済新聞 電子版 (2011年8月7日). 2019年1月22日閲覧。
  4. ^ 揺れた日本の記憶 秘蔵写真でたどる「60年安保」”. 産経フォト (2015年6月21日). 2019年1月22日閲覧。


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