御土居下御側組同心 御土居下御側組同心の概要

御土居下御側組同心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 00:07 UTC 版)

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御土居下御側組同心は落城時に藩主を逃がす密命を帯びていた。
写真は炎上する名古屋城天守(1945年の空襲時のもの)

概要

任務

名古屋城の復元模型。写真の右上の城域の端が御土居、その先が御土居下にあたる。

御土居下とは、名古屋城三の丸の北辺に築かれた土居(御土居)の外側にあたり、北は御深井庭、東は柳原街道、南は土居、西は水堀である御深井堀で囲まれた東西約4(約440メートル)の長方形の地域である[6]。東側は東矢来木戸、北側は枳殻の生垣で外部と隔てられ、西端部分は御深井庭から城内への入口となる高麗門と三の丸の清水門の間の坂道となっていた[7][8]

御土居下御側組はここに住居を与えられ、平時は、高麗門・清水門や東矢来木戸の門番、御深井庭や堀の警備、藩主の近侍や藩主外出時の護衛などを務めた[1][2][3]参勤交代で藩主が参府する時も必ず誰かが同行した[9][10]。しかし彼らの本来の任務は、万が一名古屋城が落城するような危急の事態に陥った際に、藩主を守って無事に藩領の木曽まで逃がすことにあった[1][2]。平時の職務も、脱出経路にあたる個所の警備や藩主の身辺警護など、この任務に直結するものであった[3][7]

この御土居下御側組に与えられた任務については、藩内でも藩主とごく一部の上層部しか知らない極秘事項であり、御土居下御側組でも父から嫡子にのみ口伝で引き継がれた[2][11][12]。この極秘の任務のため御土居下御側組は身元の確かな譜代の家に限られ、ほとんど入れ替わりはなかった[13]。また、婚姻養子縁組に際しては藩による厳重な身元調査が行われ、同心株の売買も禁じられていたため、他の同心組のように農民や商人が入ることはなかった[13][14]

待遇

身分としては72人扶持の足軽身分ではあったが、袴の常用や帯刀を許されるなど士分並みの特権が認められていた[1]。本来は認められない士分の家との通婚が例外的に認められたり[15]、藩が城中の女中を新たに採用する際には必ず御土居下御側組が仮親となるという内規が定められるなどの特別扱いもされていた[9][10][11]。高齢や病気で隠居した後も終身2人扶持のが保障され[1][7]、後任にはその子などを組仲間が推したため、実質的に世襲された[10]

生活

御土居下の入口にあたる東矢来木戸は常に閉ざされており、藩士であっても基本的に役人以外は通行することが許されなかった[16]。親戚でも御土居下の屋敷に宿泊する際には藩への届出を必要としたほどであり[13][17]、御土居下御側組と他の藩士との交流はほとんどなかった[2]。また、御土居下では「御土居の上には御屋形様がいる」という理由から、たとえ神事祭事の時でも騒ぐことは禁じられており、普段の芸事の稽古も初更(午後8時)までとされていた[13][18][19]

こうした世間から隔絶された静かな環境の中で、彼らは空いた時間を学問や武術、趣味にあて、文武に秀で教養の高い人物が多かった[13]。城中で漢籍の講義や砲術弓術の指南役を務めたり、画・で名を知られる者もいた[2]。彼らは、士分ではなかったため副業は黙認されており、これらの特技を生かして収入を得る者もいた[9]。屋敷の周りには田畑も持っており、御土居下御側組の生活は物心両面で豊かであったと言われている[13]

脱出経路

二の丸の埋門跡。現在は埋められている。
上から見た埋門跡。
空堀を向かって左に進むと御深井堀に出る。

万が一名古屋城が落城するような事態に陥った場合に想定されていた藩主の脱出経路は以下の通りであった[7][11][20][注釈 2]。なお、落城時に限らず火災などの場合も藩主は下記1の経路で竹長押茶屋に避難することになっていた[21]

  1. 二の丸北西の埋門[注釈 3]から本丸との間の空堀に下り、小舟に乗って水堀である御深井堀を渡る。
  2. 対岸の御深井庭の竹長押茶屋から東に進み、高麗門を経て御土居下の大海家に入る。
  3. 大海家が保管している「忍駕籠(しのびかご)」に乗り、御土居下御側組同心の護衛の下、東矢来木戸から柳原街道に出て北へ進む。
  4. 柳原街道を少し北上したあとすぐに東へ向かう路地に入り、清水から大曽根勝川、沓掛を経て木曽へと向かう。

木曽の地では、同じくこのような場合に備えて猟師木こりとして現地に住みついている者たちが出迎える手筈になっていた[1]


注釈

  1. ^ 御土居下御側組同心を忍者とするものもある(高木(1994)、29頁)が、御土居下御側組の子孫で自身も御土居下に住んでいた岡本柳英は、御土居下御側組同心で忍術で知られた広田増右衛門を評して「尾張藩にて忍術の心得あるものは、極めて稀であった」(岡本(1980)、133頁)と述べている。
  2. ^ これとは別に、本丸から二の丸・三の丸の下を通り東大手門の北の外堀に通じる地下の抜け道があったとする説もあるが、その存在は確認されていない(高木(1994)、29頁)。
  3. ^ 岡本柳英は「城の東北隅階段から」と述べている(岡本(1980)、5頁など)が、初期を除き藩主は二の丸で生活したことや埋門があるのは二の丸側であることから、ここでは生駒(1995)に拠る。
  4. ^ これ以前には「御庭足軽組」と称していたとする文献もあるが、岡本柳英はこれに疑問を呈し、それ以前には特別な名称はなく、この時に初めて名称を与えられたと主張している(岡本(1980)、72、84-86頁)
  5. ^ 逆に、御土居下の閑静な環境に惹かれて新たに移住してくる者もいた(岡本(1980)、221頁)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 中村(1990)、220頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 生駒(1995)、140頁。
  3. ^ a b c 岡本(1980)、86頁。
  4. ^ 岡本(1980)、63頁。
  5. ^ a b c d 岡本(1980)、221頁。
  6. ^ 岡本(1980)、27頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 生駒(1995)、142頁。
  8. ^ 岡本(1980)、51-55頁。
  9. ^ a b c d e f g h 生駒(1995)、144頁。
  10. ^ a b c d e 岡本(1980)、93頁。
  11. ^ a b c 窪田(1994)、22頁。
  12. ^ 高木(1994)、29頁。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n 生駒(1995)、143頁。
  14. ^ 岡本(1980)、114頁。
  15. ^ 岡本(1980)、115頁。
  16. ^ 岡本(1980)、89頁。
  17. ^ 岡本(1980)、117-118頁。
  18. ^ 岡本(1980)、112頁。
  19. ^ 岡本(1980)、118頁。
  20. ^ a b c d e f g h i j k 中村(1990)、221頁。
  21. ^ 岡本(1980)、62頁。
  22. ^ a b c 岡本(1980)、16頁。
  23. ^ a b 岡本(1980)、21頁。
  24. ^ 岡本(1980)、23-24頁。
  25. ^ 岡本(1980)、32-35頁。
  26. ^ a b 岡本(1980)、37頁。
  27. ^ 岡本(1980)、39頁。
  28. ^ a b 岡本(1980)、38頁。
  29. ^ 岡本(1980)、57頁。
  30. ^ a b 岡本(1980)、57-58頁。
  31. ^ 岡本(1980)、66頁。
  32. ^ 岡本(1980)、67頁。
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 生駒(1995)、141頁。
  34. ^ a b 岡本(1980)、68-69頁。
  35. ^ 岡本(1980)、67-68頁。
  36. ^ 岡本(1980)、70頁。
  37. ^ 岡本(1980)、70-71頁。
  38. ^ 生駒(1995)、140-141頁。
  39. ^ a b c 岡本(1980)、84頁。
  40. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 岡本(1980)、81頁。
  41. ^ a b c 岡本(1980)、142頁。
  42. ^ 岡本(1980)、221-222頁。
  43. ^ 生駒(1995)、145頁。
  44. ^ 岡本(1980)、225頁。
  45. ^ a b c 岡本(1980)、228頁。
  46. ^ a b 岡本(1980)、230-231頁。
  47. ^ 岡本(1980)、80-81頁。
  48. ^ 岡本(1980)、81-84頁。
  49. ^ a b c d e 岡本(1980)、90頁。
  50. ^ 岡本(1980)、74頁。
  51. ^ a b c d 岡本(1980)、80頁。
  52. ^ 岡本(1980)、140頁。
  53. ^ a b c d 岡本(1980)、141頁。
  54. ^ a b c d e 岡本(1980)、72頁。
  55. ^ a b 岡本(1980)、136頁。
  56. ^ 岡本(1980)、137頁。
  57. ^ a b c 岡本(1980)、154頁。
  58. ^ a b c d e 岡本(1980)、80-84頁。
  59. ^ a b 岡本(1980)、133頁。
  60. ^ 岡本(1980)、133-134頁。
  61. ^ 岡本(1980)、73-74頁。
  62. ^ 岡本(1980)、126頁。
  63. ^ a b c d 岡本(1980)、145頁。
  64. ^ 岡本(1980)、146-147頁。
  65. ^ 岡本(1980)、149頁。
  66. ^ a b 岡本(1980)、131頁。
  67. ^ 岡本(1980)、144頁。
  68. ^ 岡本(1980)、127頁。
  69. ^ a b 岡本(1980)、130頁。
  70. ^ 岡本(1980)、129頁。
  71. ^ a b c 岡本(1980)、83頁。
  72. ^ a b c 岡本(1980)、132頁。


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