奥羽越列藩同盟 戦闘

奥羽越列藩同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 05:01 UTC 版)

戦闘

戦闘は大まかに庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線に分けることができる。このうち、秋田戦線については久保田藩の新政府への恭順により加わったものである。なお、同様に新政府側となった弘前藩との間では野辺地で盛岡・八戸両藩と戦闘となっている(野辺地戦争)。

庄内・秋田戦線

清川口の戦い

庄内藩は、江戸市中警備を行っていた新徴組を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の天領を旧幕府より与えられていた。しかし、住民はこれを不服として仙台の奥羽鎮撫府に申し出たため、4月10日にこの申し出を口実に庄内征伐を決め、秋田藩、弘前藩の両藩に討ち入りを命じた。14日には副総督澤為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。

天童の戦い

4月24日、清川口の戦いで奥羽鎮撫府軍を撃退した庄内軍は、勝勢に乗じて六十里越を通り最上川左岸(寒河江市河北町)に布陣する。閏4月4日最上川を越えて天童を襲撃、市街地の半分を焼く。朝敵の誹りを恐れた庄内藩主・酒井忠篤は撤退の命を下し閏4月12日に撤退するが、官位は剥奪され庄内藩は正式に討伐の対象になってしまう。

秋田戦線

5月18日に仙台を出た九条総督一行は6月3日に盛岡に入ったが、盛岡藩はいまだ藩論統一をみない、新政府側家老暗殺の動きすらある状態であったことからこれを諦め、盛岡藩は金銭を支払う形で領内退去を願い、総督は6月24日に秋田へ出発した。7月1日、九条一行は秋田にて澤副総督と再会し、東北地方の新政府軍が秋田に集結することになった。

同藩出身である平田篤胤の影響で尊王論の強かった秋田藩においては、列藩同盟か朝廷かで藩論が二分されたが、平田学の影響を受けた若い武士が仙台藩からの使者を斬殺するに至って、新政府軍への参加と庄内藩への進攻を決定した。仙台藩はこれに怒って久保田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ横手城を陥落させ、久保田城へ迫った。

庄内藩は新政府軍側についた新庄藩本荘藩、久保田藩へと侵攻する。藩論統一が成されていなかった盛岡藩は仙台藩に恫喝される形で軍を発し、久保田藩領内北部から進入、かねてより仙台藩と親しかった家老楢山佐渡の指揮のもと、町村を焼き払いながら侵攻し、大館城を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入った。

秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていた。特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老・酒井吉之丞は二番大隊を率い奮戦した。彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の秋田空港の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価された。

秋田北部の戦いでは盛岡藩は大館城を攻略した後、きみまち坂付近まで接近するものの、新政府軍側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。

結果として、久保田領内はほぼ全土が戦火にさらされることになった。

北越戦線

長岡・米沢藩を中心とした列藩同盟軍と新政府軍との長岡藩周辺及び新潟攻防戦を中心とした一連の戦闘。

北越においては、5月2日の小千谷談判の決裂後、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。

家老・河井継之助率いる長岡藩兵は、ガトリング砲などを用いた強力な火力戦により善戦するが、5月19日には長岡城が陥落した。しかし、その後も長岡藩は奮闘し、7月末には長岡城を一時的に奪還したが、この際の負傷が原因で河井継之助は死亡した。結局長岡城は新政府軍に奪われ、会津へ敗走した。

新潟は列藩同盟側の武器調達拠点であるとともに、阿賀野川を制することにより庄内・会津方面の防衛線としても重要な拠点であった。

新潟は米沢藩を中心に守りを固めていたが、7月25日、新政府軍に寝返った新発田藩の手引きによって新政府軍が上陸。同月29日には新潟は制圧され、米沢藩は敗走した。

白河戦線、平潟戦線

会津藩及び奥羽越列藩同盟軍と北上してきた明治新政府軍との白河口、二本松、日光口、母成峠から若松城下の戦いに至る一連の戦闘。同様に、太平洋岸の藩である磐城平藩中村藩と仙台藩による列藩同盟軍と、明治新政府軍との一連の戦闘。

同盟結成後直ちに白河城を制圧した列藩同盟軍であったが、5月1日、薩摩藩士・伊地知正治率いる新政府軍は列藩同盟軍から白河城を奪還する。以後、白河城をめぐり3か月余りも攻防戦(白河口の戦い)が行われた。5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し、白河城も陥落する。6月12日には仙台藩・会津藩・二本松藩連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗に終わった。6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退し須賀川へ逃れることとなる。

一方、太平洋側では、6月16日、土佐藩士・板垣退助が率いる新政府軍が、海路で常陸国平潟に上陸した。6月24日、仙台藩兵を主力とする列藩同盟軍は、新政府軍と棚倉で激突した。6月24日には棚倉城が陥落、さらに7月13日には、新政府軍と列藩同盟軍が磐城平で激突した。列藩同盟の準盟主格の米沢藩はこの戦闘に参加せず、列藩同盟軍は磐城平城の戦いに敗れ、磐城平で藩主に代わり指揮を取っていた前々藩主・安藤信正は仙台に退いた。中村藩兵と仙台藩兵が退却すると、新政府軍は中村藩兵と仙台藩兵を追撃。7月26日、列藩同盟軍と新政府軍は広野で再び戦い、新政府軍は列藩同盟軍を破った。その後8月6日には中村藩の降伏により、太平洋岸は完全に新政府軍が制圧した。

7月26日には勤皇派が実権を得た三春藩が新政府軍に恭順し、二本松方面へ攻撃準備に加わり、7月29日に二本松城が陥落した。二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標を会津にするか仙台・米沢にするかで意見が分かれたが、会津を攻撃することとなった。会津戦争の始まりである。

会津藩は江戸占領を意図し、南方の日光口を中心に会津から遠く離れた各所に部隊を送っていたが、二本松まで北上していた新政府軍は若松の東の母成峠から攻め、敏速に前進し8月23日には若松城下に突入した。遠方に兵力があった会津藩は新政府軍の前進を阻止できず、各地の戦線は崩壊し、各地の部隊は新政府の前進を阻止するでもなく若松への帰還を志向し、城下では予備部隊である白虎隊まで投入するがあえなく敗れた。

瓦解

7月26日まず三春藩が降伏、28日には松前藩で尊王派の正議隊による政変(正議隊事件)が起きて降伏した。続いて、29日に二本松藩の本拠・二本松城が落城した。次いで8月6日相馬中村藩が降伏。一方、同盟であったはずの下手渡藩が、列藩同盟参加の時点で既に藩主が京都入りして新政府軍に加わっていた事実[30] が判明し、仙台藩が8月14日に同藩に攻め入り、下手渡藩および援兵の筑後国柳川藩[31] と交戦となり、下手渡藩藩庁の下手渡陣屋が焼失した。

日本海側の戦線においては、新政府軍は新潟に上陸した後、8月中は下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、劣勢となり羽越の国境に迫られた米沢藩が9月4日に降伏し、次いで12日には仙台藩が降伏し、すなわち同盟の盟主格の二大藩が相次いで降伏した。その後、15日福島藩上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。盟主であった輪王寺宮は9月18日に降伏し、翌年まで京都で謹慎の身となった[32]

野辺地戦争

盛岡藩降伏後の9月23日未明、突如として弘前・黒石両藩が盛岡・八戸両藩が守備する野辺地へ侵攻したもの。一旦は盛岡・八戸藩が退却するも、反撃に転じ弘前・黒石軍を撃破する。

双方の戦死者は盛岡・八戸両藩が8名なのに対し、弘前・黒石両藩が29名(或いは43名とされる)であり津軽側の大敗であった。

この戦闘の原因は津軽側の実績作りといわれるが不明である。同様の小競り合いは鹿角郡濁川でも起こっている(濁川焼討ち事件)が、いずれも戦後処理においては私闘とされた。


  1. ^ 輪王寺宮に対して親王宣下が行われたのは得度以前であるため、厳密には入道親王にあたり太政官類典では「入道公現親王」との表記がなされているが、法親王と呼ばれることも多い(勝海舟『海舟日記』山崎有信 『彰義隊戦史』など)
  2. ^ a b c 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)とは - コトバンク 日本大百科全書(井上勲執筆項)
  3. ^ a b c d 熊野秀一 2013, p. 41.
  4. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 6-7.
  5. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 6.
  6. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 11.
  7. ^ 会津容保征討ヲ仙台中将ニ命ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071518800 
  8. ^ 沢為量・三位・ヲ奥羽鎮撫総督ト為シ醍醐忠敬・少将○忠順ノ子・之ニ副ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071519300 
  9. ^ 松平容保謝状ヲ松平慶永ニ託シ咎ヲ引キ自ラ責メ退隠屏居シ以テ徳川慶喜ノ罪ヲ宥センコトヲ請フ是日江戸ヲ去リテ会津ニ帰ル」 アジア歴史資料センター Ref.A15071475800 
  10. ^ 上杉斉憲伊達慶邦使ヲ会津ニ遣シ松平容保ニ勧ルニ降伏ノ事ヲ以テス尋テ仙台米沢二本松三藩ノ使者会津ニ会シ前議ヲ申ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071475800 
  11. ^ 『南摩綱記筆記 復古記十二巻』権十郎曰、会、庄一致、而後米沢を説諭セン、米同盟セハ、仙ハ直ニ同盟セン、仙、米会、庄同盟セハ、奥羽諸藩一言ニシテ同盟スヘシ、然後、速ニ兵ヲ江戸ニ出シ、江戸城ヲ以テ軍議本営トシ、諸藩ノ兵を合シテ凶徒ヲ掃ヒ、君側ヲ清ムヘシ、如此ナレハ、則唾手シテ天下ノ事成ル可シ、是寡君江戸ニ在ル時ヨリノ持論ナル故ニ、密使ヲ以テ貴藩ヘ謀ラント、已ニ菅、本多等ニ命シタレトモ、病ニ臥シテ発スルコト能ワス、遅延今日ニ及ヒタリ、今卿等来テ此約成ル、何ノ幸カ之ニ若ンヤト、庄両候、八之丞、平介ヲ城内ニ召テ、懇篤ノ面命アリ、又賜物ヲ辱フス、平介庄藩戸田文之助ト共ニ米藩ニ赴キ、同盟ヲ謀ル、八之丞ハ菅、本多ト共ニ四月廿六日会津ニ帰結シ、一両人を撰テ彼此互ニ交萬シ、密議ヲ預リ聞クコトヲ約ス、庄ヨリハ物頭戸田文之助、軍事掛吉野遊平穉松ニ来萬ス、我藩ヨリハ佐久間平介、鶴岡ニ往テ寓居ス、後平介故アリテ帰国、上島良蔵之に代ル、是同盟ノ濫觴ナリ
  12. ^ a b c 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認”. 朝日新聞. www.asahi.com (2011年2月7日). 2011年2月9日閲覧。
  13. ^ 『仙台藩記』土佐云 謝罪嘆願被致ニテ開城某主の首級を差出候哉 平馬答 容保城外に謹慎ハ勿論ニ候得共首級ハ差出兼候伏見ニテ大概戦死生残ル者僅一両輩是等ハ皆国家盡尽忠ノ者ニテ斬首ニ及候ハバ国中同様事却て被可申全体徳川慶喜一身ニ引受壱人ノ罪にて他将卒の誤ニハ無之趣意を以謝罪嘆願御採用の上ハ会藩等ノ如キハ己に罪状消滅今更征討ヲ蒙ル謂レ無之依テハ首級迄ハ差出兼申候 土佐云 其趣ニテハ執達致兼候尤御受取ニハ相成魔敷其節ハ何様所置致候哉 平馬云 一国死ヲ以守申候 土佐云 一国拳テ死ノ覚悟ならは僅一両輩ノ死ヲ以一藩助命相成候ハバ一ツ二ツノ首級ハ安キ事に可有之ト申候其折傍座致居候
  14. ^ a b 慶応4年4月29日(1868年6月19日)、勝海舟日記に「此頃彰義隊の者等、頻に遊説し、其倍多く、一時の浮噪軽挙をとし、官兵を殺害し、東臺に屯集殆ど四千人に及ぶ、其然るべからざるを以て、頭取已下に説諭すれども、敢て是を用ひず、虚勢を張て、以て群衆を惑動す、或は陸奥同盟一致して、大挙を待と唱へ、或は 法親王奉戴して、義挙あらむと云、無稽にして無着落を思はず、有司もまた同ずる者あり、甚敷は 君上の御内意なりとして、加入勸むる者あり、是を非といふ者は、虚勢を示して劫さむとす。」と記し、この時点で彰義隊は「陸奥同盟」と一緒に新政府に反乱を起こすことや、輪王寺宮を奉戴して政権奪取することを企図していたことが分かる。また慶応4年閏4月29日の時点で江戸の勝海舟はすでに「陸奥同盟」という言葉を用いており、輪王寺宮を奉戴してのクーデター構想もすでに彰義隊が江戸で喧伝していたことが分かる。国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』144~145頁 「海舟日記」閏4月29日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月8日閲覧。)
  15. ^ 『東北征討始末五・奥羽征討二 国立公文書館デジタルアーカイブ』今度奥羽列藩会議於仙台表告 鎮撫総督府欲以修盟約執公平正大之道同心協力上尊王室下撫恤人民維持皇国而安宸襟仍条例如左 一 以伸大義于天下為目的不可拘泥小節細行事 一 如同舟渉海可以信居以義動事 一 若有不義危急之事比隣各藩速援救可報告総督府事 一 勿負強凌弱勿営私計利勿漏洩機事勿離間同盟 一 築造城塁運搬食糧不得止勿漫令百姓労役不勝愁苦 一 大事件列集儀、可帰公平之旨、細微則可随其宣事 一 通謀他国、或出兵隣境、可報同盟事 一 勿殺戮無辜、勿掠奪金穀、凡事渉不義者可加厳罰事 右条々於有違背者、則列藩集儀、可加厳譴者也、慶応四年閏四月
  16. ^ a b c d e 熊野秀一 2013, p. 40.
  17. ^ a b c d e 熊野秀一 2013, p. 42.
  18. ^ ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある。
  19. ^ 「菊池容斎史料」「蜂須賀家史料」 「日光屋史料・鶴ヶ島」 「旧仙台藩士資料」 これらを藤井徳行は東北朝廷閣僚名簿と表現している(熊野秀一 2013, p. 40)
  20. ^ 輪王寺宮は明治天皇の祖父仁孝天皇猶子
  21. ^ 熊野秀一 2013, p. 43.
  22. ^ 先代水野忠精は、老中首座であったが慶応2年(1866年)に当時数え十一歳であった長男の忠弘に家督を譲り隠居している。
  23. ^ 同盟加入当時、藩主水野忠弘も前藩主忠精も上洛しており国元には不在。筆頭家老水野元宣ら重臣が図って同盟加入を決めた。
  24. ^ そもそも新政府方であったが、孤立孤軍を恐れて同盟に参加し、のちに脱退した。
  25. ^ 圧迫を受け参加はしたが、同盟の出兵依頼に対して順延を続け、新政府軍が迫ると恭順した。
  26. ^ 元々新政府側であったが、庄内藩に圧倒されて同盟に参加した。のち新庄藩は勝手に戦線を離脱し、これに怒った庄内藩が新庄を攻め、城と市街は灰燼と化した。新庄藩一同は秋田藩に保護され新政府方となっている。なお、藩主正実の実母桃令院は薩摩藩主島津重豪の娘であり、幼くして家督を継いだ正実を補佐しており、この時期も存命である。
  27. ^ 信勇は京都におり新政府へ恭順の意思を示していたが、国元にいた前々藩主の安藤信正が指揮を取って同盟に加わった。
  28. ^ 日和見政策を行っていたが、藩内抗争の末に新政府方が勝利した。直後に榎本武揚らの旧幕府軍が来襲し、藩は陥落し藩主らは本土の津軽弘前藩の庇護を受けた。
  29. ^ 陸奥国下手渡領の国家老らが参加したが、この時点で藩の祖地であり飛地であった筑後国三池領側の藩士らの意向により、藩主は京都に入り、新政府方に恭順していた(国家老も江戸まで藩主を見送っている)。
  30. ^ 下手渡藩は下手渡と旧領である筑後国三池に半分ずつ所領を持っており、戊辰戦争に際しては三池側の藩士の主張に藩主や下手渡にいる重臣たちも同意する形で新政府への恭順が決定され、3月には藩主が下手渡から京都に入り、同藩は新政府軍に参加していた。列藩同盟参加はその後のことであり、8月になって新政府から下手渡藩に対し、奥羽鎮撫を命じられたことで同盟側の知るところとになった(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P264-266)。
  31. ^ 藩主立花氏の本家
  32. ^ 熊野秀一 2013, p. 39-40.


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