奥羽越列藩同盟 奥羽越列藩同盟の概要

奥羽越列藩同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 05:01 UTC 版)

奥羽越列藩同盟旗、黒地のものと白地のものがある
会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手

奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが[2]、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している[3]

成立間もない5月中に新政府軍は東北への侵攻を開始、同盟諸藩は新政府軍との戦闘を行ったが、勝利をおさめることはできずに個々に降伏(戊辰戦争)。9月には中心的存在の仙台、会津が降伏し、同盟は消滅した[2]

背景

幕末期、会津藩主・松平容保京都守護職、庄内藩主・酒井忠篤は江戸市中取締を命ぜられていた。特に会津藩は一会桑政権を構成し、長州藩、後に薩摩藩と対立していた。

仙台藩は62万石という、奥羽随一の石高を持ち、藩主である伊達慶邦従四位上左近衛権中将という高い位階を持っていた。開国以来の政治的変化に対し、奉行の遠藤允信らは朝廷と接近し、積極的に中央に介入しようと主張し、藩に利益のない中央情勢への介入を嫌い、現状維持を主張する但木土佐らの勢力と対立していた[4]文久3年(1863年1月には遠藤らが失脚[5]、慶邦は幕府政事総裁職就任も断り、政局から距離を置く方針を明確にしていた[6]

会津・庄内への降伏交渉

慶応4年(1868年)1月9日鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、松平容保は江戸に戻った。1月17日、新政府は仙台藩に会津藩追討を命じた[7]。しかし仙台は兵を出さなかった。

2月9日、新政府は澤為量を奥羽鎮撫総督に任じた[8]2月16日、容保は隠居を表明し、朝廷に対する謝罪状を提出して会津に戻った[9]3月2日、澤に代わって奥羽鎮撫総督となった九条道孝、副総督となった澤らが京都をたって3月23日仙台に入った。奥羽鎮撫総督府は伊達慶邦と米沢藩主・上杉斉憲に対し、容保に降伏を求めるよう命じた[10]

会津、庄内藩の動向

容保は謝罪状を提出したものの、仙台、米沢からの降伏勧告を受け入れなかった。新政府軍は会津がなお抗戦を諦めていないと見ていた。

会津は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平親懐らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。なお、親懐は米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の萌芽が現れていたと言える。[11] そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。

また、両藩はプロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する蝦夷地(現在の北海道)の根室留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していた[12]。しかしプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルク中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている[12]。一方でプロイセン戦争大臣兼海軍大臣アルブレヒト・フォン・ローン日本の混迷が続けば、領土確保を考慮するべきではないかと意見を述べている[12]

会津への出兵

鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津三藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することで一旦同意した[13]。しかし、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。

白石列藩会議

こうした中、閏4月4日、米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下されたため、閏4月19日、諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。

世良修蔵の暗殺

奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩士・大山格之助に密書を書いた。

内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士・瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。

奥羽列藩同盟の誕生

会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された[14]。その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟約書[15] が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。同盟のイデオローグ・理論的指導者として仙台藩の漢学者大槻磐渓の存在が挙げられる。そして、同じく仙台藩士・玉虫左太夫は、藩主・伊達慶邦の命を受けて東北諸藩を回り同盟を成立させた立役者の一人として知られる。

北越諸藩の加盟~奥羽越列藩同盟の成立

4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。しかし新発田藩は圧力によって渋々参加したものであったため、後に寝返ることになる。

列藩同盟結成後の撫順総督府

副総督の澤為量が率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。5月1日松島に新政府軍の佐賀藩小倉藩の兵が上陸し、九条の護衛のため仙台城下に入った。九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督の澤と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。翌15日、列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日、仙台を発って盛岡藩に向かった。

同盟の構成

奥羽越公議府

奥羽越列藩同盟の政策機関として奥羽越公議府(公議所とも)がつくられ、諸藩の代表からなる参謀達が白石城で評議を行った。

列藩同盟の戦略

奥羽越公議府において評議された戦略は、「白河処置」及び「庄内処置」、「北越処置」、「総括」であり、全23項目にのぼる。主に次のような内容で構成される。

  • 白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
  • 庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
  • 北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
  • 新潟港は列藩同盟の共同管理とする
  • 薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
  • 世論を喚起して、諸外国を味方につける

このほか、プロイセン領事、アメリカ公使に使者を派遣し、貿易を行うことを要請している。

盟主・輪王寺宮

最後の輪王寺宮にして奥羽越列藩同盟の盟主となった公現入道親王(のちの北白川宮能久親王

上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた寛永寺の門跡、輪王寺宮公現入道親王を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。輪王寺宮は「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べるなど、新政府軍に対して強い反感を持っていた[16]。同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請した。しかし輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し、政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした[17]。結局、6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。

この際輪王寺宮が同盟の「天皇」として推戴されたという説が存在する。瀧川政次郎がその可能性があると指摘し、遠藤進之助、亀掛川博正らも追随している。藤井徳行はこの説をさらにすすめ、当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている[18] ことや、この「朝廷」が「東武皇帝」を擁立し、元号を「大政」と改め、政府の布陣を定めた名簿が史料として残っている[19] ことなどから、「東北朝廷」の存在はほぼ確定的になったと主張した[16]星亮一小田部雄次などがこの説を支持している[16]。一方で石井孝、工藤威は現実性をもたない、構想のみのものであったと批判している[16]

上野戦争の頃から輪王寺宮が天皇として擁立されるという噂は流れており[14]、輪王寺宮の江戸脱出に手を貸した榎本武揚も「南北朝の昔の如き事を御勤め申す者が有之候とも御同意遊ばすな」と忠告している[16]。輪王寺宮は列藩会議出席に先立つ7月9日秋田藩10日には仙台藩に対し「幼君」のため、「久壊凶悪」な「薩賊」を除くとした「輪王寺宮令旨」を下している[3]。さらに10日には動座について説明し、「薩賊」を除くために輪王寺宮が決起したという布告文が公議府から出されている[3]。この布告文には目的を達成したあと輪王寺宮が東叡山(寛永寺)に戻るとされた上、「南北朝ノ故事ヲ附会シテ、宮様ノ御神意ヲ弁ヘス、誣罔ノ説ナサンコトヲ恐ル」と説明されている[3]。石井孝はこの布告文から東北朝廷の存在は成り立たないとしている[17]。また「東北朝廷」の構成とされる史料についても作成された経緯が不明確であり、輪王寺宮の還俗即位改元についても公表された形跡はない[17]

皇族であり、明治天皇の叔父[20] でもある輪王寺宮の擁立は同盟にとっては統合のシンボル的な価値を持った[17]。しかし秋田藩などからは「足利尊氏の悪例」として批判されている[17]。いわばお飾り的な存在であった輪王寺宮だったが、後に同盟が敗勢に向かうと、軍事面にも積極的な言動を行うようになり、抗戦継続を訴えるようになった[21]

組織構造

奥羽越列藩同盟は、まず列藩会議があり、その下に白石に奥羽越公議府が置かれた。その後輪王寺宮が盟主に就任し、旧幕府の閣老である板倉勝静小笠原長行にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立した。

  • 盟主 : 輪王寺宮
  • 総督 : 伊達慶邦、上杉斉憲
  • 参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
  • 政策機関 : 奥羽越公議府(白石)
  • 大本営 : 軍事局(福島)
  • 最高機関 : 奥羽越列藩会議

この結果、形式的には京都の新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、すでに新政府軍との戦闘の最中であり、指揮系統が統一されることもなかった。降伏に際しても同盟としての降伏は行われず、各藩が個々に降伏している。

構成藩

()内は、同盟当時の藩主。

*は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く、なお下手渡藩は当初から新政府軍に通じた上での加入であった)

閏4月11日の白石城での会議に参加した14藩

閏4月23日の白石城での会議に参加した11藩

奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩

5月4日加盟

以下、5月6日加盟

その他


  1. ^ 輪王寺宮に対して親王宣下が行われたのは得度以前であるため、厳密には入道親王にあたり太政官類典では「入道公現親王」との表記がなされているが、法親王と呼ばれることも多い(勝海舟『海舟日記』山崎有信 『彰義隊戦史』など)
  2. ^ a b c 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)とは - コトバンク 日本大百科全書(井上勲執筆項)
  3. ^ a b c d 熊野秀一 2013, p. 41.
  4. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 6-7.
  5. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 6.
  6. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 11.
  7. ^ 会津容保征討ヲ仙台中将ニ命ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071518800 
  8. ^ 沢為量・三位・ヲ奥羽鎮撫総督ト為シ醍醐忠敬・少将○忠順ノ子・之ニ副ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071519300 
  9. ^ 松平容保謝状ヲ松平慶永ニ託シ咎ヲ引キ自ラ責メ退隠屏居シ以テ徳川慶喜ノ罪ヲ宥センコトヲ請フ是日江戸ヲ去リテ会津ニ帰ル」 アジア歴史資料センター Ref.A15071475800 
  10. ^ 上杉斉憲伊達慶邦使ヲ会津ニ遣シ松平容保ニ勧ルニ降伏ノ事ヲ以テス尋テ仙台米沢二本松三藩ノ使者会津ニ会シ前議ヲ申ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071475800 
  11. ^ 『南摩綱記筆記 復古記十二巻』権十郎曰、会、庄一致、而後米沢を説諭セン、米同盟セハ、仙ハ直ニ同盟セン、仙、米会、庄同盟セハ、奥羽諸藩一言ニシテ同盟スヘシ、然後、速ニ兵ヲ江戸ニ出シ、江戸城ヲ以テ軍議本営トシ、諸藩ノ兵を合シテ凶徒ヲ掃ヒ、君側ヲ清ムヘシ、如此ナレハ、則唾手シテ天下ノ事成ル可シ、是寡君江戸ニ在ル時ヨリノ持論ナル故ニ、密使ヲ以テ貴藩ヘ謀ラント、已ニ菅、本多等ニ命シタレトモ、病ニ臥シテ発スルコト能ワス、遅延今日ニ及ヒタリ、今卿等来テ此約成ル、何ノ幸カ之ニ若ンヤト、庄両候、八之丞、平介ヲ城内ニ召テ、懇篤ノ面命アリ、又賜物ヲ辱フス、平介庄藩戸田文之助ト共ニ米藩ニ赴キ、同盟ヲ謀ル、八之丞ハ菅、本多ト共ニ四月廿六日会津ニ帰結シ、一両人を撰テ彼此互ニ交萬シ、密議ヲ預リ聞クコトヲ約ス、庄ヨリハ物頭戸田文之助、軍事掛吉野遊平穉松ニ来萬ス、我藩ヨリハ佐久間平介、鶴岡ニ往テ寓居ス、後平介故アリテ帰国、上島良蔵之に代ル、是同盟ノ濫觴ナリ
  12. ^ a b c 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認”. 朝日新聞. www.asahi.com (2011年2月7日). 2011年2月9日閲覧。
  13. ^ 『仙台藩記』土佐云 謝罪嘆願被致ニテ開城某主の首級を差出候哉 平馬答 容保城外に謹慎ハ勿論ニ候得共首級ハ差出兼候伏見ニテ大概戦死生残ル者僅一両輩是等ハ皆国家盡尽忠ノ者ニテ斬首ニ及候ハバ国中同様事却て被可申全体徳川慶喜一身ニ引受壱人ノ罪にて他将卒の誤ニハ無之趣意を以謝罪嘆願御採用の上ハ会藩等ノ如キハ己に罪状消滅今更征討ヲ蒙ル謂レ無之依テハ首級迄ハ差出兼申候 土佐云 其趣ニテハ執達致兼候尤御受取ニハ相成魔敷其節ハ何様所置致候哉 平馬云 一国死ヲ以守申候 土佐云 一国拳テ死ノ覚悟ならは僅一両輩ノ死ヲ以一藩助命相成候ハバ一ツ二ツノ首級ハ安キ事に可有之ト申候其折傍座致居候
  14. ^ a b 慶応4年4月29日(1868年6月19日)、勝海舟日記に「此頃彰義隊の者等、頻に遊説し、其倍多く、一時の浮噪軽挙をとし、官兵を殺害し、東臺に屯集殆ど四千人に及ぶ、其然るべからざるを以て、頭取已下に説諭すれども、敢て是を用ひず、虚勢を張て、以て群衆を惑動す、或は陸奥同盟一致して、大挙を待と唱へ、或は 法親王奉戴して、義挙あらむと云、無稽にして無着落を思はず、有司もまた同ずる者あり、甚敷は 君上の御内意なりとして、加入勸むる者あり、是を非といふ者は、虚勢を示して劫さむとす。」と記し、この時点で彰義隊は「陸奥同盟」と一緒に新政府に反乱を起こすことや、輪王寺宮を奉戴して政権奪取することを企図していたことが分かる。また慶応4年閏4月29日の時点で江戸の勝海舟はすでに「陸奥同盟」という言葉を用いており、輪王寺宮を奉戴してのクーデター構想もすでに彰義隊が江戸で喧伝していたことが分かる。国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』144~145頁 「海舟日記」閏4月29日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月8日閲覧。)
  15. ^ 『東北征討始末五・奥羽征討二 国立公文書館デジタルアーカイブ』今度奥羽列藩会議於仙台表告 鎮撫総督府欲以修盟約執公平正大之道同心協力上尊王室下撫恤人民維持皇国而安宸襟仍条例如左 一 以伸大義于天下為目的不可拘泥小節細行事 一 如同舟渉海可以信居以義動事 一 若有不義危急之事比隣各藩速援救可報告総督府事 一 勿負強凌弱勿営私計利勿漏洩機事勿離間同盟 一 築造城塁運搬食糧不得止勿漫令百姓労役不勝愁苦 一 大事件列集儀、可帰公平之旨、細微則可随其宣事 一 通謀他国、或出兵隣境、可報同盟事 一 勿殺戮無辜、勿掠奪金穀、凡事渉不義者可加厳罰事 右条々於有違背者、則列藩集儀、可加厳譴者也、慶応四年閏四月
  16. ^ a b c d e 熊野秀一 2013, p. 40.
  17. ^ a b c d e 熊野秀一 2013, p. 42.
  18. ^ ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある。
  19. ^ 「菊池容斎史料」「蜂須賀家史料」 「日光屋史料・鶴ヶ島」 「旧仙台藩士資料」 これらを藤井徳行は東北朝廷閣僚名簿と表現している(熊野秀一 2013, p. 40)
  20. ^ 輪王寺宮は明治天皇の祖父仁孝天皇猶子
  21. ^ 熊野秀一 2013, p. 43.
  22. ^ 先代水野忠精は、老中首座であったが慶応2年(1866年)に当時数え十一歳であった長男の忠弘に家督を譲り隠居している。
  23. ^ 同盟加入当時、藩主水野忠弘も前藩主忠精も上洛しており国元には不在。筆頭家老水野元宣ら重臣が図って同盟加入を決めた。
  24. ^ そもそも新政府方であったが、孤立孤軍を恐れて同盟に参加し、のちに脱退した。
  25. ^ 圧迫を受け参加はしたが、同盟の出兵依頼に対して順延を続け、新政府軍が迫ると恭順した。
  26. ^ 元々新政府側であったが、庄内藩に圧倒されて同盟に参加した。のち新庄藩は勝手に戦線を離脱し、これに怒った庄内藩が新庄を攻め、城と市街は灰燼と化した。新庄藩一同は秋田藩に保護され新政府方となっている。なお、藩主正実の実母桃令院は薩摩藩主島津重豪の娘であり、幼くして家督を継いだ正実を補佐しており、この時期も存命である。
  27. ^ 信勇は京都におり新政府へ恭順の意思を示していたが、国元にいた前々藩主の安藤信正が指揮を取って同盟に加わった。
  28. ^ 日和見政策を行っていたが、藩内抗争の末に新政府方が勝利した。直後に榎本武揚らの旧幕府軍が来襲し、藩は陥落し藩主らは本土の津軽弘前藩の庇護を受けた。
  29. ^ 陸奥国下手渡領の国家老らが参加したが、この時点で藩の祖地であり飛地であった筑後国三池領側の藩士らの意向により、藩主は京都に入り、新政府方に恭順していた(国家老も江戸まで藩主を見送っている)。
  30. ^ 下手渡藩は下手渡と旧領である筑後国三池に半分ずつ所領を持っており、戊辰戦争に際しては三池側の藩士の主張に藩主や下手渡にいる重臣たちも同意する形で新政府への恭順が決定され、3月には藩主が下手渡から京都に入り、同藩は新政府軍に参加していた。列藩同盟参加はその後のことであり、8月になって新政府から下手渡藩に対し、奥羽鎮撫を命じられたことで同盟側の知るところとになった(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P264-266)。
  31. ^ 藩主立花氏の本家
  32. ^ 熊野秀一 2013, p. 39-40.


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