古代日本の地方官制 古代日本の地方官制の概要

古代日本の地方官制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 08:24 UTC 版)

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地方官制のはじまり

大宝律令制定以前の地方官制は、以下の通りである。

県(アガタ)

4世紀6世紀頃?
  • 古事記』成務段
    「大国小国の国造(くにのみやっこ)を定め賜ひ、亦(また)国々の堺、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定め賜ひき。」
  • 日本書紀』成務紀
    4年「今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」
    5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む。」(阡陌は南北・東西の道の意)
成務天皇は13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたる。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の潤色であると考えられている。また成務天皇自体の実在性が疑われている。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできる。
名前の由来は、「吾が田」であろうと思われる[1]
越前美濃尾張以西に分布し、畿内西国など、瀬戸内海周辺の西日本の拠点に集中している。倭の六県や、河内国山背国の「県」は大王の料地としての性格が強く、平安時代になってもその伝統はつづいた。

県(コホリ・コオリ)

6世紀後半~7世紀中?
『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉の大量設置の記事がみられるが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できる。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられるが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)だということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察される。
この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における(コホリ)へと発展していったと考えられている。
県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたところにあるだろう。

国造(くにのみやつこ)

大和政権は、地方の首長を国造などに任命し、政治的・軍事的支配をそのまま認める形(地方行政官的)で、全国的に支配していた。在地首長制という。
国造の成立期については、吉備国造や筑紫国造527年磐井の乱)などの反抗もあったが、古代国家統一の情勢にあり、日本の古代国家の成立期に当たると考えられている。これは、継体朝 (507~531) が終わり欽明朝 (540~571) が始まった時期に当たる。
国造制は、遅くとも6世紀には成立している。『隋書』倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭頃には約120の国造が存在し、国の下に10の稲置(いなぎ)が属していたという。120という数字は『国造本紀』所載の国造数や、倭王武上表文の「東征毛人五十五国,西服衆夷六十六国」などと近似し、5世紀段階における一定程度の編制が想定される。半島への大規模な出征や巨大古墳の築造を可能とさせた一因であろう。
国造は、娘か姉妹を采女(うねめ)として大和政権に従属の証として奉仕させる義務を負っていた。また、贄(にえ)などの貢納物を納め、さらに力役としての人夫を差し出し、兵士の徴発に応じた。戦時には大和政権の国造軍として戦った。これらと並んで重要な奉仕は、「トモ=伴」として大王の身辺のことを司る「舎人」(とねり)、大王の身辺の警護を司る「靫負」(ゆげい)、大王の食膳のことを司る「膳夫」(かしわで)を差し出し、大王や王族の宮に出仕していたトモの養育という名目で各地の特産物を貢献することであった。後者の各地の特産物などを負担する集団は「べ=部」(部民制)とよばれ、「トモ」とあわせて、5世紀から7世紀にかけて「トモ-ベ」制(品部)として王権存立の基礎を成した。このように国造は伴造であり、部の支配者であったと考えられるが、具体的な内容についてはまだ不明な点が多い。

氏姓制度

大和政権の政治組織として氏姓制度が存在した。

律令制下の地方官制・行政組織

国評里制

大化元年(645)に始まる大化の改新の政治改革によって、地方の支配制度・行政組織も大いに転換された。大化改新の詔に郡の規定があるが、大化5年(649)にの前身であるが全国的に施行され、国造のクニ・支配地域を行政区画としての評にかえていき、白雉4年(653)の評の分割・新置を経て、8世紀の郡の大部分の前身の評が設けられた。
国評里制は、国造氏族を含む地方首長を任命した評督(ひょうとく)・助督(じょとく)を、中央政府から派遣された国宰(こくさい)が管轄し、7世紀半ばの孝徳朝(645~654)に陸奥・越国にもその支配体制が成立した。

国郡里制

地方官制は、大化~白雉年間(645~654)にかけて、旧来の国造の支配領域を再編し、「評」(コオリ)という行政区画を置いた。つまり、国-評-里である。その後の701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成された。
  • 評里制(646~701)、郡里制(701~716)、郡郷里制(716~740)、郡郷制(740~)… 発見された木簡から四転したことが分かる。
国は朝廷から派遣される国司が、郡は国造を優先的に採用した終身官である郡司が統治した。
国司が政務を執る国庁(国衙)を国府に置き、郡司が政務を執る郡庁(郡衙)を建設している。
郡は、規模によって大・上・中・下・小に分けられ、大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)・主帳(しゅちょう)などが置かれた。
「伊保郷印」が出土している。三河国賀茂郡伊保郷の印章で、印の場所が特定できたことは全国でも珍しく、地方行政が実際に実施されていたことを証明する証拠である。

  1. ^ 『コンパクト版日本地名事典』、吉田茂樹著、新人物往来社、1991年


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