加藤弘之
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肖像 | |
人物情報 | |
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別名 | 誠之、成之(諱)、弘蔵、土代士(通称) |
生誕 |
1836年8月5日(嘉永2年4月20日) 但馬国出石郡出石(現・兵庫県豊岡市) |
死没 |
1916年2月9日(79歳没) 東京府東京市(現・東京都) |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 鈴子(市川兼恭養女) |
子供 | 照麿(長男)、晴比古(次男)、馬渡俊雄(三男)、高子(次女・山縣伊三郎妻)、幸子(三女・近藤虎五郎妻)、徳子(六女・古川武太郎妻)、梅子(七女・榊保三郎妻)、久子(八女・俵国一妻) |
学問 | |
研究分野 | 洋学(ドイツ学)、法学(国法学)、政治学 |
研究機関 | 蕃書調所→洋書調所→開成所 |
学位 |
文学博士(日本・1888年) 法学博士(日本・1905年) |
称号 | 東京帝国大学名誉教授(1901年) |
主要な作品 |
『国体新論』(1874年) 『人権新説』(1882年) 『強者の権利の競争』(1893年) |
学会 |
帝国学士院 哲学会 国家学会 明六社 |
署名 | |
加藤 弘之 | |
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在任期間 | 1906年12月10日 - 1916年2月9日 |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1890年9月29日 - 1906年12月15日 |
在任期間 |
1875年4月25日 - 11月28日 1886年1月11日 - 1890年5月19日 |
左院一等議官 | |
在任期間 | 1874年2月13日 - 2月23日 |
在任期間 | 1890年1月 - 1892年3月 |
その他の職歴 | |
麹町区会議員[2] (1889年11月 - 1895年11月) |
外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ[3][4]。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第3代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。その後男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。獨逸学協会会員。
来歴
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- 1836年(天保7年):但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩士として、同藩家老をも務めた加藤家の加藤正照と、妻・錫子の長男として生まれる。幼名は土代士(とよし)。
- 1852年(嘉永5年):江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
- 1854年(安政元年):大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。
- 1860年(万延元年):蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
- 1861年(文久元年):『鄰草』(となりぐさ)を著す。外敵を防ぐためには武器だけでは駄目で人和が必要であると喝破し、立憲思想(議会による上下分権)の優越性を論じ、同僚の西周や津田真道に大きな影響を与える。(ただし印刷・公表されたのは明治32年(1889年)である)。
- 1864年(元治元年):旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。[5]
- 1868年(慶応4年):1月、目付に任ぜられる。新暦12月12日、政体律令取調御用掛に就任。この年、『立憲政体略』刊行。
- 1869年(明治2年):新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出。
- 1870年(明治3年):洋書進講担当の侍講に任ぜられる。旧暦7月、『真政大意』を著し天賦人権論を紹介。
- 1872年(明治5年):ヨハン・カスパル・ブルンチュリの『国家学』を進講(後に『国法汎論』として翻訳出版)。
- 1873年(明治6年):明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。
- 1874年(明治7年):『国体新論』を発表。『日新真事誌』2月3日に、民撰議院設立尚早論を掲載。
- 1877年(明治10年):2月1日、東京開成学校綜理に就任。4月13日、旧東京大学法文理三学部綜理に就任。
- 1881年(明治14年):7月、職制の改革によって、旧東京大学初代綜理( - 明治19年(1887年)1月)。11月22日、内務省が達で、加藤の絶版届により、『真政大意』『国体新論』の販売を禁止。
- 1882年(明治15年):10月、『人権新説』を出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こした。一般的には、この『人権新説』を境に、加藤は自らの思想、態度を変化させたと考えられている。
- 1886年(明治19年):1月11日、元老院議官。
- 1888年(明治21年) - 日本国最初の文学博士の学位取得
- 1890年(明治23年):
- 1893年(明治26年):11月29日、『強者の権利の競争』(ドイツ語にも翻訳され5月、 Der Kampf ums Recht des Stärkeren und seine Entwicklung として出版)では、強権的な国家主義を展開した。
- 6月、帝国大学総長を辞任。
- 7月、錦鶏間祗候。
- 1895年(明治28年):7月、宮中顧問官。
- 1898年(明治31年):高等教育会議議長。
- 1900年(明治33年):男爵に叙せられ華族に列する。
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年):8月28日、『吾国体と基督教』、キリスト教を攻撃し、国体とキリスト教をめぐって論争がおこる。
- 1916年(大正5年):79歳で死去。遺言により、無宗教で葬儀が行われた。墓所は雑司ヶ谷霊園。
思想
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1861年(文久元年)に執筆された『鄰艸』はわが国で初めて立憲政体(上下分権の政体)の透徹した理解を示し、その強みと必要性を説得的に論じた画期的な著作であり、公表されなかったとは言え、同僚の西周や津田真道に読まれ、大きな影響を与えた。(上下分権とは、「君主万民の上に在りて之を統御すると雖も、確固たる大律(憲法)を設け又公会(議会)と云える者を置きて王権を殺ぐ者を云ふ」) [7]
また、1868年(明治元年)には『立憲政体略』を著わす。これらは人和がなければ兵器があっても外敵を防げず、人和のためには立憲政体(上下同治、君民同治)が必要であるという論旨である。明治初年における政府内で、すでに将来の立憲政体樹立のコンセンサスが形成されていたことは、加藤の多大な貢献による。1872年(明治5年)宮島誠一郎の『立国憲議』、同年左院が正院に提出した『下議院を設くるの議』や1873年、大久保利通の『立憲政体に関する意見書』などは基本的に加藤の論に基づいている。[8]
加藤の思想は終生現実的だった。
維新後はじめは天賦人権説に拠った啓蒙思想の傾向が強く、1873年(明治6年)には福澤諭吉、森有礼、西周らとともに明六社を結成、啓蒙活動を展開した。しかし後には社会進化論の立場から民権思想を批判するようになり、この180度の転向が終生攻撃の的となる。
加藤は1879年(明治12年)11月には、愛宕下青松寺での講演「天賦人権説ナキノ説并善悪ノ別天然ニアラザルノ説」で、進化論の立場から天賦人権説を否定していたが、1881年(明治14年)に海江田信義がこれを批判すると、この問題は政府部内にも波及した。加藤は文部卿・福岡孝弟に促され、改めて天賦人権論の立場から書かれた旧著『真政大意』と『国体新論』の絶版を宣言するという騒動になっている。
- ^ 『麹町区史』 東京市麹町区役所、1935年3月、547頁。
- ^ 前掲東京市麹町区役所、549頁。
- ^ 西田真之, 「フルベッキと明治15年森林法草案」『明治学院大学法学研究』 101(上巻) p.231-246 2016年, ISSN 1349-4074, NCID AA11963574, 明治学院大学法学会。
- ^ 大島一元、「異色の宣教師、フルベッキ」『近代日本の創造史』 5巻 2008年 p.40-42, doi:10.11349/rcmcjs.5.40, 近代日本の創造史懇話会。
- ^ 小川恭一編著 『寛政譜以降 旗本家百科事典 第2巻』 東洋書林、1997年11月、832頁。
- ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ^ 鳥海靖 『日本近代史講義』1988 東京大学出版会26-33、278-290頁
- ^ 鳥海靖 『日本近代史講義』1988 東京大学出版会 44-48頁
- ^ 五代友厚 神子畑鉱山(1)五代友厚とその足跡、2022年2月28日
- ^ 綾部家住宅但馬の百科事典、たんしん地域振興基金
- ^ 『生野銀山町物語』生野町中央公民館, 1987、p93
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
- ^ 『官報』第7202号「叙任及辞令」1907年7月3日。
- ^ a b 『官報』第1056号「叙任及辞令」1916年2月10日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『官報』第6466号、1905年1月21日、531頁。
- ^ 『官報』第6746号「叙任及辞令」1905年12月23日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
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