ヘルベルト・フォン・カラヤン 人物・来歴

ヘルベルト・フォン・カラヤン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 01:12 UTC 版)

人物・来歴

オーストリア・ザルツブルクにあるカラヤンの生家
父・エルンスト(1868-1951)と母・マルタ(1881-1954)
兄・ヴォルフガング、2人の友人とともに写る幼少期のカラヤン

カラヤンは1908年ザルツブルク公国英語版ザルツブルクで、騎士 (Ritter) の子として生まれた。兄のヴォルフガング・フォン・カラヤンドイツ語版1906年 - 1987年)も後に音楽家になっている。先祖は東ローマ帝国に仕えたギリシャ人カラヤニス家(Karaiannis, Caragianni)の出身であるといわれているが、ギリシャ化したアルメニア人スラブ系マケドニア人の説もあり)だという説もある。カラヤンのカラテュルク語で「」を意味するが、バルカン言語地域ではその語は存在しない。アルーマニア人中世東ローマ帝国時代にギリシャ北部、マケドニアなどの山岳部に住んでいた、ラテン語系統の言語を話す少数民族。ヴラフ人とも呼ばれ、ルーマニア人の先祖ではないかともいわれる)の子孫という説もある[5][6]。高祖父のゲオルク・ヨハネス・カラヤニスは現在のギリシャ共和国のコザニに生まれて1767年にウィーンへ向けて出発し、最終的にはザクセン選帝侯領ケムニッツに定住した[7][8]。ゲオルク・ヨハネスは兄弟と共にザクセンの服飾産業の世界で成功し、選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世に仕えて1792年6月1日爵位を受け、貴族の称号である「フォン」を添えてvon Karajanという苗字になった[9]。ヘルベルトの母方はスロヴェニア人の家系であり、民族的にはスラヴ人の血を引いている[10]。カラヤン自身は、自らがオーストリア人であることを強く自認していた。出生名はHeribert Ritter von Karajan(ヘリベルト騎士フォン・カラヤン、騎士ヘリベルト・フォン・カラヤン)だが、1919年、オーストリア・ハンガリー帝国の終結に伴う貴族制度の廃止により「騎士」「フォン」が外され、以降のオーストリアでの公式名(官公庁の証明書など)はヘリベルト・カラヤン(Heribert Karajan:母音のiが入るのはスロヴェニア系の特徴)。芸術活動を行う上でカラヤン自身が出生名(フォン入り)にこだわり、芸名(芸術家名)として「ヘルベルト・フォン・カラヤン」 (Herbert von Karajan) を名乗ることを官憲に認めさせた経緯がある。

ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院ウィーン音楽院で学んだ後、親の買い上げたオーケストラによりザルツブルクでデビュー。ドイツウルム市立歌劇場の総監督から誘いが来て、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴び、1934年には同国アーヘン市立歌劇場で音楽監督に就任した。1938年ベルリン国立歌劇場におけるヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の指揮で国際的にも認められ、これにより、翌1939年にはベルリン国立歌劇場およびベルリン国立管弦楽団の指揮者の地位を得るとともに、イタリアのミラノ・スカラ座オペラを指揮することとなった。

1941年

カラヤンは戦前期、ベルリン国立歌劇場管弦楽団をオペラ、コンサートあわせて、130回以上指揮しており、録音も一定数残している。これはウルム、アーヘンを大幅に上回る数字であり。正式のポストにこそ就かなかったものの、戦後のウィーン交響楽団、フィルハーモニア管、ウィーンフィル。ベルリンフィルに匹敵する蜜月関係であった。ただし、戦後、同歌劇場が東ドイツに属してからは(同歌劇場がおおむね西ドイツ人やオーストリア人を音楽監督に戴いていたにもかかわらず)一度も振る機会はなかった。

1946年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であった[注 2]ことを理由に、ソビエト連邦の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌1947年には再び処分保留となった。

1948年ウィーン交響楽団の首席指揮者、翌1949年ウィーン楽友協会の音楽監督に就任。また、イギリスのレコード会社EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元で、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動およびレコード録音も盛んに行うようになった。1951年、戦後再開したバイロイト音楽祭の主要な指揮者として抜擢される。しかし、翌年には音楽祭を主催するヴィーラント・ワーグナーと演出を巡って対立した。この後、ヴィーラントの死後もバイロイト祝祭劇場に戻ることはなかった。この時期、ウィーン・フィルおよびウィーン国立歌劇場とも断絶状態となっている。

1954年11月、ドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーが急逝したことで、翌1955年にフルトヴェングラーとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのアメリカ演奏旅行の代役を果たし成功をおさめ、この旅行中にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任、1989年まで34年もの長期間この地位にとどまった。戦後、フルトヴェングラーの死までカラヤンは同団の指揮台に2~3回しか登場しておらず、急転直下の就任であった。

1957年には同楽団と初の日本演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年、NHK交響楽団を指揮するため単身来日していた)。日本公演ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「前奏曲と愛の死」やブラームス交響曲第1番などが特に評価され、日比谷公会堂の客席からはすすり泣きさえ聞かれたという[11]

1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任した。ベルリンとともに、世界の人気を二分する両オーケストラを同時にたばねることになり(しかも加えてミラノ・スカラ座でも重要な位置を占めていた)、このころから「帝王」と呼ばれ始める。残された録音が少ないために忘れられがちであるが、この時期を中心にウィーン交響楽団への登場も非常に多い。演奏会としてはフィルハーモニア管弦楽団の倍以上、150回に及び、これはベルリン・フィルに次ぐ数字である。同団とは姉妹関係にあるウィーン楽友協会合唱団との共演による声楽曲(バッハの『マタイ受難曲』や『ミサ曲 ロ短調ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』など)やブルックナーがこのコンビの得意レパートリーであった。特にバッハの2曲は同団と離れた60年代以降は演奏会で取り上げなることがなくなっており、ベルリンフィルとのスタジオ録音を1回ずつ行っただけである。

ウィーン国立歌劇場のポストは監督のエゴン・ヒルベルトと対立し、1964年に辞任した。以後十数年、ウィーン・フィルとは一部のレコーディングとザルツブルク音楽祭のみでの関係となる。1950年代からはスカラ座でも主要な指揮者として活躍していた(当初はドイツ・オペラ担当、のちイタリア・オペラも指揮)。1964年12月17日にスカラ座での『椿姫』の上演が完全に失敗したため、以後スカラ座では『椿姫』の上演を封印することとなった(カラスの呪い)。このころから健康問題の不調に悩まされるようになりながらも、世界中でおびただしい回数の演奏旅行を行った。ウィーン離任後はベルリン・ドイツ・オペラにも一度登場するが、この関係は継続されず、以後彼のオペラ活動は歌劇場よりも音楽祭が中心となっていく。

1965年には映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーゾーとともにコスモテル社を設立して、クラシック音楽の映像化事業にも着手している。1967年には、自らの理想に沿うワーグナーのオペラの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を始めた。1972年にはベルリン・フィルとともに3度のコンサートを行い、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をも創設し、自ら音楽監督に就任した。ベルリン・フィルがオペラのオーケストラ・ピットに入るようになったのはこの音楽祭が契機となっている。1972年、ベルリン・フィル団員の養成を目的としたオーケストラ・アカデミー、いわゆるカラヤン・アカデミーを創設した。1982年、自身の映像制作会社テレモンディアルモンテカルロに設立、ベートーヴェン交響曲全集をはじめとする、主要レパートリーの映像化にも着手した。

1977年

四半世紀にわたり、カラヤンとベルリン・フィルは良好な関係を維持したが、1983年、女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡り、加入を認めないベルリン・フィルと対立した[12]。その激しい軋轢は新聞種にもなり、ベルリン・フィルの芸術監督辞任の噂もささやかれたが、翌年和解に至る(結局マイヤーは自ら正式入団を辞退した)。晩年を迎えたカラヤンはこの騒動の後、ベルリン・フィルからの離反を強め、もう一つのヨーロッパを代表する楽団であるウィーン・フィルとの結びつきをより深めていくことになる。1988年、ドイツの雑誌『デア・シュピーゲル』は「お金の魔術師」というタイトルでカラヤン批判の特集記事を組んだ。その内容とは、コロンビア・アーティスト・マネージメントがカラヤンとベルリン・フィルの台湾への演奏旅行の条件として法外な出演料と、カラヤンとウィーン・フィルとの演奏フィルムの購入を台湾側に要求したというものだった。このスキャンダルに加え、カラヤンのベルリンでの演奏回数が減っていたという事情も手伝って、カラヤンへの批判が噴出した。ベルリン・フィルや西ドイツの議会野党からも退任を求める声が高まった。

1989年4月24日、ウィーン・フィルとの演奏会出演の翌日に、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。7月16日、当時ソニーの社長だった大賀典雄がカラヤンの自宅を訪ねた[13]時、カラヤンは「左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ」と語った。大賀は、カラヤンに次世代のデジタルビデオ・カメラを出来るだけ早く納品する約束と、カラヤンがレーザーディスクでの発売しか認めていなかったレガシー・シリーズの映像作品を8ミリのソフトで発売しないかという営業に来ていた。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり、大賀の腕に抱かれたまま心肺停止の状態になった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが、そのまま帰らぬ人となった(すでに手遅れとなり、間もなく死亡が確認された)。それは、カラヤンがDGからソニーに移籍する直前の死去だった。満81歳没(享年82)。

移籍に当たっては、そのテストケースとしてカルロ・マリア・ジュリーニを先にソニーへ送り込み、また「カラヤンの耳」とも喩えられたレコーディング・エンジニアのギュンター・ヘルマンスも送り込んでいた。

辞任したベルリン・フィルとの最後のコンサートは、ザルツブルク復活祭音楽祭でのヴェルディの『レクイエム』、生涯最後の録音と演奏会は、ウィーン・フィルとのブルックナー交響曲第7番だった。カラヤンは逝去する前日にザルツブルク祝祭大劇場で、この年の夏のザルツブルク音楽祭でプレミエを迎えるヴェルディのオペラ『仮面舞踏会』のリハーサルを行っていた。この突然の死がなければ、ウィーン・フィルと自身のレパートリーの新録音・再録音に着手し、また1991年には10年ぶりにウィーン国立歌劇場に復帰する予定だったともいわれている[14]

カラヤンは指揮者の職業病とも言える脊椎の持病に悩まされ続け、生涯に12回もの大手術を受けた。1978年には脳梗塞に見舞われ(『家庭交響曲』のリハーサル中、落とした指揮棒を取ろうとしたのが発作のきっかけであった)、その際指揮台に腰を強打したことなども追い討ちをかけて[15]、最晩年は歩行も厳しいほど身体のコントロールを失うことになった。1986年以降のカラヤンは指揮台の柵につけられたサドル状の特製の椅子に座って指揮し、長年目をつぶって指揮していたオーケストラのみの曲でも1983年ごろからは目を開いて指揮することが多くなった[16]


  1. ^ 現代の発音では「ヘアベアト」または「ヘアバート」に近い[1]
  2. ^ 1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年5月1日ウルムで再入党している。当時のことを後年「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは1935年、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、リチャード・オズボーン著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。
  3. ^ 音楽評論家の岩井宏之は「カラヤンは、いかにもスマートで美しい響きを生み出していたものの、作品の中に込められている作曲家その人の、あるいは当の作曲家が生きていた時代の"切なさ"を十分に表出するには至らず、したがって聴き手の心に迫ってくる力が弱かった。(中略)カラヤンがオーケストラに対すると、どんな作品であれ、美しく響かせること自体を目的にしているような趣があり、それが私には不満だった」と述べている[18]
  4. ^ 同時期に活躍したカール・ベームオイゲン・ヨッフムヨーゼフ・カイルベルトといったドイツ系指揮者はドイツ系の作曲家以外のレパートリーの比率は非常に低かった。
  1. ^ Herbert von Karajan の発音”. Forvo. 2021年12月11日閲覧。
  2. ^ 田中, 泰「「楽壇の帝王」カラヤンが今でも愛されるワケ あえて「好き」とは言いにくいほどの人気ぶり」『東洋経済オンライン』、2018年3月24日、1面。2021年12月11日閲覧。
  3. ^ 学習研究社『カラヤン名演集〈1〉田園・未完成・悲愴 (学研CDブック)』目次より
  4. ^ a b 帰徳書房 1979
  5. ^ Binder, David. Vlachs, A Peaceful Balkan People in Mediterranean Quarterly - Volume 15, Number 4, Fall 2004, pp. 115-124
  6. ^ Karl-Markus Gauß Európa szétszórt népei” (ハンガリー語). scripta. 2021年12月11日閲覧。
  7. ^ Rockwell, John「'GENERAL MUSIC DIRECTOR OF EUROPE'」『ニューヨーク・タイムズ』、1986年6月22日。2021年12月11日閲覧。
  8. ^ The Great Conductors: Herbert von Karajan (1908-1989)” (英語). Amazon.com. 2007年11月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月11日閲覧。
  9. ^ Herbert Von Karajan-Karajan Family” (英語). A tribute site to the great Austrian conductor Herbert von Karajan (1908-1989). 2021年12月11日閲覧。
  10. ^ Lapajne, Branka「The Shared Slovenian Ancestors of Herbert von Karajan and Hugo Wolf」『Canada Free Press』、2008年4月4日。2021年12月11日閲覧。
  11. ^ 帰徳書房 1979, p. 94
  12. ^ 30 March: Sabine Meyer Was Born”. interlude.hk. interlude.hk (2022年3月30日). 2022年6月10日閲覧。
  13. ^ 日経ビジネスが描いた日本経済の40年 大賀氏”. ameblo.jp. canal-cafe (2009年10月28日). 2022年6月10日閲覧。
  14. ^ 『レコード芸術』1989年8月号
  15. ^ エンドラー 1994
  16. ^ オペラの歌唱部分や合唱曲を指揮する時は全盛期でも目を開けて指揮しており、これは残された映像で確認できる。
  17. ^ ドイツ『シュテルン』誌、1981年8月20日号
  18. ^ カール・ベーム指揮ウィーン交響楽団ハイドン四季』のCD <POCG-2328/9>のライナーノート、5頁
  19. ^ Karajan conducts Beethoven 5th Symphony”. www.youtube.com. www.youtube.com. 2022年6月10日閲覧。
  20. ^ 盤渉調「音取」と盤渉調「越天楽」によるピアノのための主題と変奏”. shop.zen-on.co.jp. 全音楽譜出版社. 2022年6月10日閲覧。
  21. ^ 山崎浩太郎『レコード芸術』2000年10月号
  22. ^ a b c Siep, Lena. “ヘルベルト・フォン・カラヤン”. ポルシェ. 2021年12月11日閲覧。
  23. ^ ヨーロッパ屈指のゲレンデで冬を満喫したリヒャルト・シュトラウスとカラヤン”. ontomo-mag.com. ontomo-mag.com. 2022年6月9日閲覧。
  24. ^ a b c d 眞鍋圭子『連載インタビュー「カラヤンの真実」』(インタビュー)、ユニバーサル ミュージックジャパン、2014年8月25日https://www.universal-music.co.jp/classics/karajan2014/cat/interview/2021年12月11日閲覧 
  25. ^ 扶桑社『モーストリー・クラシック』2008年6月号
  26. ^ Ferruccio Furlanetto(英語)『Ferruccio Furlanetto talks Von Karajan』(インタビュー)、San Diego Reader、2014年5月1日https://www.sandiegoreader.com/news/2014/may/01/classical-ferruccio-furlanetto-talks-1-3/2021年12月11日閲覧 
  27. ^ a b 野宮珠里「「新芸」とその時代(36) 「トラ」たちの回想……カラヤン&ベルリン・フィル公演Ⅳ」『毎日新聞』、2018年4月14日。2021年12月11日閲覧。
  28. ^ 松山, 明人「SHM-CD クラシック盤について」(PDF)『JASジャーナル』第48巻第10号、日本オーディオ協会、2008年、4-8頁、2021年12月11日閲覧 
  29. ^ 朝日新聞』1989年7月17日付朝刊、21頁。
  30. ^ AERA』1989年8月1日付。
  31. ^ 「ビデオ・カセットに カラヤン、ソニーと協力」『朝日新聞 朝刊』、1970年5月23日、12版、23面。
  32. ^ a b c d 「KARAJAN 100th Anniversary Box」の解説書より
  33. ^ 眞鍋 2009
  34. ^ 小松 2008, p. 125
  35. ^ 第8章 「レコードに代わるものはこれだ」 <コンパクトディスク>”. ソニーグループについて. ソニーグループ. 2021年12月11日閲覧。
  36. ^ 小松 2008, p. 126
  37. ^ 歌舞伎の型 とは?世界的指揮者カラヤンも感動!」『和樂web』、2018年6月5日。2021年12月11日閲覧。






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