エルンスト・フォン・シューフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/31 20:44 UTC 版)
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基本情報 | |
生誕 | 1846年11月23日![]() |
死没 | 1914年5月10日(67歳没)![]() |
職業 | 指揮者 |
エルンスト・フォン・シューフ(Ernst von Schuch、出生時の名前はエルンスト・ゴットフリート・シューフErnest Gottfried Schuch、1846年11月23日 (グラーツGraz)- 1914年5月10日(ニーダーレスニッツNiederlößnitz))は、オーストリアの指揮者。ドレスデン宮廷歌劇場でリヒャルト・シュトラウスとともに活躍した。
略歴
グラーツに生まれる。初めは法律を修め、のちにフェリックス・オットー・デッソフの下で音楽を学ぶ。1867年、ブレスラウのテオドール・ローベの下で指揮を始める。その後、ヴュルツブルク(1868~70年)、グラーツ(1870~71年)、バーゼル等の歌劇場指揮者を歴任。
1872年、ベルンハルト・ポリーニによってドレスデンに迎えられ、同年宮廷歌劇場の音楽監督に就任。1873年以降はユーリウス・リーツ(後にフランツ・ヴュルナー)とともに宮廷楽長を務める。
1882年、顧問官として宮廷歌劇場の運営を引き継ぎ、1889年、ドレスデン宮廷歌劇場音楽総監督に就任。在任中、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』、『ニーベルングの指環』のドレスデン初演や、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『火の危機』(1901年)、『サロメ』(1905年)、『エレクトラ』(1908年)、『ばらの騎士』(1910年)の初演を成功に導き、オペラの上演水準、附設管弦楽団のレベルを飛躍的に向上させ、同歌劇場に一大黄金期をもたらした。シューフの活躍は画期的な「シューフの時代」として歴史にその名をとどめている。
1898年にはオーストリア皇帝より世襲貴族への昇格を許され、1899年にはザクセン王国枢密顧問官に就任。1909年にはザクセン王国から貴族位を叙せられた。妻クレメンティーネ、長女リーゼルはともにソプラノ歌手。ドレスデンに没した。
なお、指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは他の指揮者を褒めることはめったになかったが、シューフに対する評価は温かく[1]、演奏を聴いた時のことを回想し「恍惚となってしまった」[2]と語るなど、高く評価した。
脚注
- ^ Haggin, B. H. (1959), "Conversations with Toscanini", Doubleday & Company Inc., p. 106.
- ^ Haggin, B. H. (1967), "Toscanini Musicians Knew", Horizon Press, p. 173.
参考文献
Richard Strauss/Ernst von Schuch: Richard Strauss - Ernst von Schuch. Ein Briefwechsel. Hrsg. von Gabriella Hanke Knaus. (= Veröffentlichungen der Richard-Strauss-Gesellschaft; Band 16). Henschel-Verlag, Berlin 1999, ISBN 3-89487-329-9
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「エルンスト・フォン・シューフ」の記事における「エルンスト・フォン・シューフ」の解説
1914年5月10日(ニーダーレスニッツNiederlößnitz))は、オーストリアの指揮者。ドレスデン宮廷歌劇場でリヒャルト・シュトラウスとともに活躍した。
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