フランス語史
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外的な歴史
属州ガリア
紀元前58年から52年にガイウス・ユリウス・カエサルによって征服されるまでは、フランスの大部分は古代ローマ人によってガリア人と呼ばれていたケルト語を話す人々と、ガリア北海岸のベルガエ人によって占められていた。フランス南部にも、ピレネー山脈と地中海西部に沿って広がっていたイベリア人、地中海東部のリギュール人、マルセイユやアンティーブといったギリシャ植民地、ヴァスコン人、アクィタニア人、南西部の原始バスク人など、複数の異なる言語、文化が存在していた。[要出典]
ガリアのケルト人が多数の方言を持つゴール語を話していたことはある程度証明されており、アルプスの南端ではレポント語も話されていた。俗ラテン語から進化したフランス語はこれらのゴール語の影響も受けており、そのうち特に顕著なのは連音現象(リエゾン、アンシェヌマン、子音弱化)とアクセントの無い音節の欠落である。ゴール語起源の統語上の習慣としては、強調を意味する接頭辞re-の使用(例えば、luire「かすかに光る」とreluire「光る」のように、ラテン語の口語における接頭辞re-は、ゴール語のro-やアイルランド語のro-と同じように使われている。)強調構文、発音を表すための前置詞変化、oui「はい」や、それに似た言葉の意味の拡がりなどが挙げられる。
フランス語と近隣のフランス語方言、および密接に関連した言語には、今も200程度のゴール語起源の単語が残っており、それらのほとんどは民衆の生活に関連したものである。その一例として下記が挙げられる。
- 地理(bief「河口、水車用の水路」、combe「くぼ地」、grève「砂浜」、lande「荒地」)
- 植物の名前(berl「セリ科植物」、bourdaine「セイヨウイソノキ」、chêne「コナラ」、bouleau「カバノキ」、corme「ナナカマド」、garzeau「ムギセンノウ」、if「イチイ」、velar/vellar「カキネガラシ」)
- 野生生物(alouette「ヒバリ」、barge「オグロシギ」、belette「コエゾイタチ」、loche「ドジョウ」、pinson「アトリ」、vanneau「タゲリ」)
- 田舎および農場生活(boue「泥」、cervoise「大麦のビール」、char「荷馬車」、charrue「犂」、glaise「ローム」、gord「魚を取る立て網」、 jachère「休耕地」、javelle「刈り穂積み」、marne「泥灰土」、mouton「羊」、raie「畑の畝」、sillon「畝溝」、souche「切り株」、 tarière「ねじ錐」、tonne「大樽」)
- 一般的な動詞(braire「どなる、わめく」、changer「変える」、craindre「恐れる、心配する」、jaillir「人、もの、感情などが噴出する」)[1]
その他のケルト語の単語は直接ではなくラテン語を通して取り入れられ、そのうちのいくつかはラテン語において一般的に使用される単語となった(例えば、béton「コンクリート」、braies「膝丈のズボン」、 chainse「チュニック」、daim「ダマシカ」、 étain「スズ」、glaive「両刃の剣」、manteaux「コート」、vassal「農奴、召使い」など。)ラテン語は都市部の上流階級の間で貿易、公務、教育などに使用される目的で急速に広まったが、地方の領主や農民たちにとってはほとんど、もしくは全く社会的価値がなかったため、ラテン語が地方にまで普及するのは4、5世紀後のことになる。結果的にラテン語が普及したのは、都市集中型の経済から農場中心型の経済への移行、農奴制など、王政時代の社会的要因によるものと考えられている。
フランク族
3世紀ごろから、西ヨーロッパは北と東からのゲルマン人部族による侵略を受け、そのうちのいくつかの部族はガリアに定住した。これらの部族のうち、フランス語の歴史において大きな影響を与えたのは、フランス北部に定住したフランク族、現在のドイツ・フランス国境付近のアレマンニ族、ローヌ渓谷のブルグント族とスペインのアキテーヌ地域に定着した東ゴート族である。ゲルマン部族の言語はそれぞれの地域で話されていたラテン語に非常に大きな影響を与え、発音(特に母音の音素)と文法両方を変化させた。 また、ゲルマン人の言語からラテン語に対して、新しい言葉が大量に持ち込まれた。(ドイツ語に起源があるフランス語の単語一覧)現在のフランス語(方言は除く)の語彙のうち、どの程度の割合でゲルマン語起源の語が存在するかは議論が分かれており、500語(1%)[2]程度(ゴート語やフランク語などの古ゲルマン語からの借用語)[3]から、15%(ゴート語、フランク語、スカンジナビア語、オランダ語、ドイツ語と英語など、現代までの全てのゲルマン諸語からの影響を考えた場合)[4]まで開きがある。 もしラテン語や他のロマンス諸語を通じて流入した語彙を含めるなら、この割合はさらに増える可能性がある(注意:アカデミー・フランセーズによると、英語に由来するフランス語の言葉は5%しかない)
- Françaisという言語名自体は、古フランス語のfranceis/francesc(中世ラテン語のfranciscusを参照のこと)やゲルマン語のfrankiscから来ていて、「french」や「frankish」は、Frank(「自由人」)から来ている。Franksは3世紀にラテン語でFranciaとなったFranko(n)である土地に関係している(当時は現在のベルギーやオランダの一部であるガリア・ベルギカの地であった)。Gauleという名称も、フランク語の*Walholant(「ローマ人/ガウル人の土地」)から来ている。
- 社会構造に関連する用語や表現数語(baron/baronne, bâtard, bru, chambellan, échevin, félon, féodal, forban, gars/garçon, leude, lige, maçon, maréchal, marquis, meurtrier, sénéchal)
- 軍事用語(agrès/gréer, attaquer, bière [「担架」], dard, étendard, fief, flanc, flèche, gonfalon, guerre, garder, garnison, hangar, heaume, loge, marcher, patrouille, rang, rattraper, targe, trêve, troupe)
- フランク語などのゲルマン諸語に由来する色名(blanc/blanche, bleu, blond/blonde, brun, fauve, gris, guède)
- 共通する単語の他の例に、abandonner, arranger, attacher, auberge, bande, banquet, bâtir, besogne, bille, blesser, bois, bonnet, bord, bouquet, bouter, braise, broderie, brosse, chagrin, choix, chic, cliché, clinquant, coiffe, corroyer, crèche, danser, échaffaud, engage, effroi, épargner, épeler, étal, étayer, étiquette, fauteuil, flan, flatter, flotter, fourbir, frais, frapper, gai, galant, galoper, gant, gâteau, glisser, grappe, gratter, gredin, gripper, guère, guise, hache, haïr, halle, hanche, harasser, héron, heurter, jardin, jauger, joli, laid, lambeau, layette, lécher, lippe, liste, maint, maquignon, masque, massacrer, mauvais, mousse, mousseron, orgueil, parc, patois, pincer, pleige, rat, rater, regarder, remarquer, riche/richesse, rime, robe, rober, saisir, salon, savon, soupe, tampon, tomber, touaille, trépigner, trop, tuyauや硬音のg(例:gagner, garantie, gauche, guérir)や有音のh(haine, hargneux, hâte, haut)で始まる多くの単語がある。[5]
- -ard(フランク語のhard由来:canard, pochard, richard)や-aud(フランク語のwald由来:crapaud, maraud, nigaud)、-ais/-ois(フランク語の-isc由来:marais, Anglais, berlinois)、-an/-and(古い接尾辞由来-anc, -enc:paysan, Flamand, tisserand)で終わるものは、フランスでは非常に一般的な姓の接辞である。
- -ange(英語の-ing、ドイツ語の-ung:boulange/boulanger, mélange/mélanger, vidange/vidanger)で終わるものは、指小辞語-onであり、多くの動詞は、-ir(affranchir, ahurir, choisir, honnir, jaillir, lotir, nantir, rafraîchir, ragaillardir, tarir)で終わる。
- -quin(低フランク語-kin由来:casaquin, bouquin, brodequin, mannequin, quinquin(したがって歌謡P'tit quinquin, ramequin, ribaudequin)で終わる単語
- mésentente, mégarde, méfait, mésaventure, mécréant, mépris, méconnaissance, méfiance, médisanceのような接頭辞mé(s)-
- フランク語のfir-やfur-(ドイツ語のver-や英語のfor-を参照されたい)由来のforbannir, forcené, forlonger, (se) fourvoyerなどの接頭辞for-, four-。ラテン語のforis由来の「~の外側」や「~の上部」を表す古フランス語のfuersと合わさったもの。ラテン語のforisは古典ラテン語では接頭辞には用いなかったが、ゲルマン侵攻後の中世ラテン語では接頭辞として見られる。
- ラテン語のin-(英語のinやon、intoに当たる)由来の接頭辞en-やem-は、フランク語の*in-や*an-の影響で、ラテン語では見られなかった新たな用法を得た。通常は強調文や完了文で用いられる単語:emballer, emblaver, endosser, enhardir, enjoliver, enrichir, envelopperなど
- The syntax shows the systematic presence of a subject pronoun in front of the verb, as in the Germanic languages: je vois, tu vois, il voit, while the subject pronoun is optional – function of the parameter pro-drop – in the other Romance languages (as in veo, ves, ve).
- 疑問文における主語と述語の倒置。これはゲルマン諸語の特徴であり、フランス語以外の主要なロマンス諸語には見られない(Vous avez un crayon.→Avez-vous un crayon?(鉛筆を持っていますか。))。
- 名詞の前に形容詞を置くのは、ゲルマン諸語の特徴で、他の主要なロマンス諸語よりもフランス語で一般的で、ときにはそれが必須となっている(belle femme, vieil homme, grande table, petite table)。任意の場合は、その意味が変わってくる(grand homme(「偉人」)とle plus grand homme(「最も偉大な人」)/homme grand(「背の高い人」)とl'homme le plus grand(「最も背の高い人」)、certaine chose/chose certaine)。ワロン語では《形容詞+名詞》の語順は、古フランス語のように一般的な規則である。
- ゲルマン諸語の対応する単語から借用したり原形になっている単語が数語ある(bienvenue, cauchemar, chagriner, compagnon, entreprendre, manoeuvre, manuscrit, on, pardonner, plupart, sainfoin, tocsin, toujours)。
850年になるとネウストリアでさえゲルマン語は役人の第二公用語になり下がってしまった。…10世紀の間に口語としては西アウストラシアでもネウストリアでも完全に消滅したといえるだろう。[6]
ノルマン人と低地諸国由来の語
西暦1204年に、ノルマンディー公国はフランス王国領となった。そして、古ノルド語[7]に起源を持つ約150の語がノルマン語よりフランス語に取り入れられた。それらの多くは海や航海に関係する語である。
abraquer, alque, bagage, bitte, cingler, équiper(装備する), flotte, fringale, guichet, hauban, houle, hune, mare, marsouin, mouette, quille, ras, siller, touer, traquer, turbot, vague, varangue, varech. 他は農業や日々の生活に関係がある:accroupir, amadouer, bidon, bigot, brayer, brette, cottage, coterie, crochet, duvet, embraser, fi, flâner, guichet, haras, harfang, harnais, houspiller, marmonner, mièvre, nabot, nique, quenotte, raccrocher, ricaner, rincer, rogue.
同様に、オランダ語からの借用語も、主に貿易や海事についてのものが多いが、必ずしもそれらに関係する言葉ばかりではない。
affaler, amarrer, anspect, bar(すずきの類), bastringuer, bière(ビール), blouse(上っ張り), botte, bouée, bouffer, boulevard, bouquin, cague, cahute, caqueter, choquer, diguer, drôle, dune, frelater, fret, grouiller, hareng, hère, lamaneur, lège, manne, mannequin, maquiller, matelot, méringue, moquer, plaque, sénau, tribord, vacarme, 低ドイツ語の単語のように:bivouac, bouder, homard, vogue, yole, この時代の英語のように:arlequin(イタリア語arlecchino < ノルマン語hellequin < 古英語*Herla cyning), bateau, bébé, bol (sense 2 ≠ bol < Lt. bolus), bouline, bousin, boxer, cambuse, cliver, chiffe/chiffon, drague, drain, est, équiper (to set sail), gourmet, groom, héler, interlope, merlin, nord, ouest, pique-nique, potasse, rade, rhum, sloop, sonde, sud, turf, yacht.
オイル語
中世イタリアの詩人ダンテはその著書「俗語論」でロマンス諸語は「はい」(現在の標準フランス語ではoui)と言うのに用いる単語によって3つの類例に分類できるとした。 Nam alii oc, alii si, alii vero dicunt oil(ocと言う人もいれば、siと言う人もいれば、oïlと言う人もいる) ラテン語のhoc ille「それはそれ」に由来するoïlは北フランスを、ラテン語のhoc「それ」に由来するocは南フランスを、ラテン語のsic「従って」に由来するsiはイタリア半島やイベリア半島を占めた。現代の言語学者は、概して現代語でouèとなるリヨン周辺のフランスにおける第3類「アルピタン語」を加えている。
フランスの北のガロ・ロマンス語群(ピカルディ語やワロン語、フランシアン語のようなオイル語)は、フランクの侵略者が話していたゲルマン語派から影響を受けた。クローヴィス1世の時代からフランク族は北ガウルを越えて支配地域を拡大した。時を超えて、フランス語はパリやイル=ド=フランス地域圏周辺で見出されるオイル語や(フランシアン理論)オイル語全てに見出される共通の特徴を基礎にした公用語から(リングワ・フランカ理論)発展した。
「はい」としてocやòcを用いる言語であるオック語は、フランスの南や北スペインの言語群である。ガスコーニュ語やプロヴァンス語のようなこの言語は、相対的にフランク語の影響をほとんど受けていない。
中世にはフランスの方言における他の言語群の影響が見られた。
主にsiという単語を取得したオイル語に由来する近代フランス語は、スペイン語やカタルーニャ語(sí)やポルトガル語(sim)、イタリア語(sì)における「はい」の同種の形態から否定疑問文に対する否定の主張や返答を否定するのに用いた。この語はケベック・フランス語に一部残っていて、フランス語話者は主に北西フランスからの移民に起源がある。
4世紀から7世紀にかけて、コーンウォールやデヴォン、ウェールズからのブリソン諸語を話す人々が、通商やアングロ・サクソンのイングランド侵攻から逃れるためにイギリス海峡を横断した。アルモリカに自身の国を建国した。言語はフランス語のbijouやmenhirを与えて最近の世紀にブルトン語になった。しかしこの変化は一方通行ではなく、後にフランス語が組み込んだavenのようなブルトン語の単語は、フランス語のhavreから派生したものである。
ガイウス・ユリウス・カエサルの時代から証明されているように、中世前期のロマンス諸語の拡大によって衰退したとはいえ、南西フランスのノヴェンポプラニアにはバスク語と近縁の言語を話す非ケルト系の人々が暮らしていた。彼らはガロンヌ川とピレネー山脈の間の地域で話すラテン語を基礎とした言語に影響し、結局ガスコーニュ語と呼ばれるオック語の方言となった。その影響はboulbèneやcargaisonのような単語に見られる。
スカンディナヴィアのヴァイキングが9世紀以降にフランスに侵攻し、ノルマンディーと呼ばれることになる地域の大半に自国を建国した。ノルマン語は古ノルド語やその方言に大いに影響されたが、ノルマン人はそこではオイル語を話すことにした。海運(mouette, crique, hauban, huneなど)や農業に関連する多くのフランス語を残した。
1066年のイングランド征服後、ノルマン人の言語は、アングロ=ノルマン語へと成長した。フランス語の影響した英語の使用がイングランド社会を通じて拡大した時代までに、アングロ=ノルマン語は征服から百年戦争までのイングランドの支配階級や商業の言語として使われた[8]。
この頃にアラビア語から多くの借用語が、主に中世ラテン語やイタリア語、スペイン語を通じて間接的にフランス語に入ってきた。高級品(élixir, orange)や香辛料(camphre, safran)、貿易品(alcool, bougie, coton)、科学(alchimie, hasard)、数学(algèbre, algorithme)に関する単語があった。北アフリカにフランスの植民地が拡大するようになると、フランス語はアラビア語から直接単語を借用した(例:toubib)。
中世フランス語から現代フランス語
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1300年頃までについては、さまざまなオイル諸語をまとめて古フランス語(ancien français)として扱うことがある。現存するフランス語最古の文章は842年のストラスブールの誓約である。古フランス語はシャルルマーニュの騎士や十字軍の英雄を詠った武勲詩の成立とともに文語となっていった。
行政機関として初めてフランス語を公用語として採用したのはイタリア北西部のヴァッレ・ダオスタで、1536年のことであったが、これはフランスによるフランス語公用語化に3年先立つものである[9]。1539年のヴィレル=コトレ勅令でフランソワ1世はフランス語を行政と宮廷で用いる公用語とし、それ以前に用いられていたラテン語を追放した。公的機関で用いるべき標準語として使用を強制されたことと、曲用体系を失ったことをもって、オイル語のこの方言は古フランス語と区別される中世フランス語(moyen français)とされている。1550年にはフランス語文法について最初に記述したルイ・メグレのTretté de la Grammaire françaiseが出版されている。現代フランス語で700語を数える、美術(scenario、piano)・嗜好品・食品などを表すイタリア語起源の語彙がこの時期に持ち込まれた[10]。
16世紀に始まった統一化・規範化・純化が行われた後の、17世紀から18世紀にかけてのフランス語を古典フランス語(français classique)とすることがあるが、17世紀以降現代までのフランス語を単に現代フランス語(français moderne)とすることも多い。
1634年にリシュリュー枢機卿によってアカデミー・フランセーズが創設され、フランス語の純化と維持を目的とする公的機関が誕生した。定員40名のアカデミー・フランセーズ会員は les immortels (不死者)として知られている。この二つ名は、ときおりそう誤解されることがあるものの、アカデミー会員の任期が終身であることに由来するのではなく(ただし会員の任期は実際に終身であるが)、リシュリューの定めたアカデミーの紋章に À l'immortalité ([フランス語の]不滅[のため]に)と記されていることによる。今日においても、アカデミー・フランセーズは健在であり、フランス語の監視と外来語・外来表現の置き換えに寄与している。そうした置き換えの最近の例には、software に対する logiciel、packet-boat に対する paquebot、riding-coat に対する redingote などがある。ただし computer に対する ordinateur はアカデミーによる造語ではなく、IBMの依頼を受けた言語学者の手になるものである(この間の経緯は fr:ordinateur を参照のこと)。
17世紀から19世紀にかけては、フランスは欧州屈指の大国であったため、啓蒙思想の影響力も相俟ってフランス語は欧州の知識階級のリンガ・フランカとなり、特に美術、文学、外交分野で崇敬を受けた。プロイセンのフリードリヒ2世やロシアのエカチェリーナ2世などはただフランス語で会話や読み書きができただけでなく、たいへん長じていた。ロシアやドイツ諸国、スカンジナビア諸国の宮廷でも公用語ないし主要言語としてフランス語が用いられ、自民族の言語は農民の言語とみなされ退けられた。
17世紀と18世紀には、フランス語は南北アメリカ大陸において自らの占める位置を恒久的なものとした。ヌーヴェル・フランス(北米のフランス領)の入植者がどの程度フランス語を話すことができたかについては学術上議論が存在する。入植者のうち、おそらくフランス語を話したであろうパリ地方出身者は全体の15%に満たず(なお女性入植者の25%はパリ地方出身であり、多くが「王の娘」であった。男性入植者のうちパリ地方出身者は5%)、それ以外の入植者はおおむね、標準フランス語を母語としないフランス北西部・西部の出身であった。これらの入植者のどれだけが第2言語としてフランス語を理解できたかはよくわかっておらず、また彼らの圧倒的多数はオイル諸語のいずれかを母語としていたが、フランス語を第2言語として習得していない場合に、フランス語とオイル諸語の類似からどの程度までフランス語話者と意思疎通ができたかもはっきりとはわかっていない。いずれにせよ、フランスからの入植者グループのすべてが言語的に統一されたことが(この過程がフランス本土、大西洋航路上、カナダ上陸後のいずれにおけるものであったかはともかく)多数の史料から徴され、その結果17世紀末には当時の全「カナダ人」が母語としてフランス語(王のフランス語)を話したが、これはフランス本土の言語的統一が達成されるよりはるかに早いものである。カナダにおけるフランス語はパリにおけるものと同じくらい良いフランス語であるというのがかつての定評であった。現在、南北アメリカ大陸におけるフランス語の話者数は約1000万人を数えるが、これにはフランス語系のクレオール諸語(全体で同じく1000万ほどの話者人口を持つ)は含まない。
アカデミー・フランセーズの創設や公教育の普及、数世紀にわたる政府による管理、メディアの発達によって、統一された公用語としてのフランス語は堅固なものへと作りあげられてきたが、今日でもアクセントや語彙における地域差は大量に残存している。フランス語の「一番良い」発音はトゥーレーヌ(広義のパリ盆地南西部でトゥールを擁する)のものであろうという評があるが、このような価値判断は問題に満ちており、近代化以降人々が次第に特定の地域で一生を過ごさないようになっていったこと、全国メディアが重要性を増していったことに由来している。個々の「地域的」アクセントが将来どうなっていくのか多くは予見しがたい。1789年のフランス革命とナポレオン帝国の後に成立した、国民国家としてのフランスは、もっぱらフランス語を使用させることを通じてフランス人を統合した。このことについて英国の歴史家エリック・ホブズボームは、「フランス語は、「フランス」という概念の本質といえるものであり、にもかかわらず、1789年にはフランス人の50%はまったくフランス語を話すことができず、「まともに」話せたのは12~13%でしかなかった。実際のところ、オイル語圏でさえも、中心的地域の外では都市部を除いてふつうフランス語は話されておらず、その都市部でも、郊外(faubourgs)では常に話されていたわけではなかった。北仏でも南仏同様に、ほとんど誰もフランス語など話さなかった」[11]と述べている。ホブズボームは、ナポレオンによって導入された徴兵制と、1880年代の公教育法の果たした役割を強調している。両者はフランスの多様な集団を混ぜ合わせナショナリズムの鋳型へと流し込むことで、各人が共通の国家の一員であるという意識をもったフランス国民を作りあげたが、一方でさまざまなパトワ(方言や少数言語)はどんどん根絶されていった。
現代の問題
現在、フランスでは、フランス語の保存と英語からの影響(フラングレも参照)に関して、特に国際的なビジネス、科学、大衆文化の分野で議論がある。 フランスではフランス語の保存のための法律がある。例えば、印刷物の広告と看板においては、外国語表現を含む表現はフランス語への翻訳を同時に掲載しなければならず、またラジオ上で放送されるフランス語の楽曲の歌詞は、ある割合(最低40%)のフランス語を含まなければならない。
かつてフランス語はヨーロッパでの国際言語であり、17世紀から20世紀半ばまで国際的な外交言語だった。しかし、第二次世界大戦後、アメリカ合衆国が国際的な超大国となったことにより、以前フランス語が占めていた国際言語の地位は英語に取って代わられた。 その転機は第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約にあり、ヴェルサイユ条約は英語とフランス語両方で書かれた。 フランスに本社を置く国際的な大企業において、フランス国内での業務でさえ英語を使う場合が数は少ないものの増加している。また国際的な認知を得るためには、フランスの科学者は国外のジャーナルへ英語で論文を書く必要がある。想像できる通り、これらの傾向は少なからぬ反発を招いている。 2006年3月のEUサミットにおいて当時のシラク大統領は、フランス人実業家エルネストアントワーヌ・セリエールが英語で演説を始めた際に、サミットを退出した[12]。2007年2月には、フォーラム・フランコフォニー・インターナショナルはフランスにおける英語の"言語的ヘゲモニー"に対する抗議の組織化を始め、フランス人労働者がフランス語を仕事のために使う権利の支援を行っている[13]。
しかし、フランス語を学ぶ人は英語に次いで世界で2番目に多い。また、特にアフリカなど、ある地域における共通語となっていることもある。ヨーロッパ外における生きた言語としてのフランス語は、混合物となっている。東南アジアで形成されたいくつかの旧フランス植民地では、フランス語の遺産はほぼ絶滅している。フランスの領土であった西インド諸島、南太平洋のフランス領ポリネシアでは、この言語はクレオール言語や方言、またピジン言語に変化した。[要出典]その一方で、多数のフランス植民地ではフランス語を公用語として採用し、またフランス語話者の総数は増加している。これはアフリカで顕著である。
カナダの行政区ケベック州においてはこの言語は成功を収め、今日、この行政区の人口の80%が話者となっている[14]。1970年代からのディファレント・ロウと呼ばれる法律、これによりフランス語の保存は行政やビジネス、教育の場で確実なものとなった。例をあげるならばBill 101は、ある子の両親がフランス語で勉強するために英語を用いる学校へ通学しなかった場合、その子供全員に恩恵を与えるものである。このようにケベックでは、英語や非フランス語がフランス語にとって代わることを防止している。こうした代替の最も大きな例は北アメリカであった。努力もまたなされており、例として「ケベック州フランス語評議会」では、ケベックで話されるフランス語の派生をより均一なものとし、また同様に、ケベック・フランス語の特殊性も保存している。
フランスの移民はアメリカ合衆国、オーストラリア、また南アフリカへ行われた。しかし、これら移民たちの子孫は同化し、彼らのうちのごく少数がフランス語を話している。アメリカ合衆国ではルイジアナ州(CODOFIL)、またニューイングランド地方とメイン州の一部で言語保存の努力が進行中である。[要出典]
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