世界政策
世界政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:29 UTC 版)
詳細は「:w:Wilhelminism」を参照 1888年に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクと対立し、1890年にビスマルクを更迭した。ヴィルヘルム2世は親政により帝国主義政策を実行した。まず建艦し太平洋へ進出した。さらに債権国としてオスマン債務管理局をめぐり英仏と対立した。 プロイセン王国のときに増してオランダとの協力関係は実際的であった。1903年7月19日にフェルテン・ギヨーム社は子会社ドイツ=オランダ電信会社を設立した。翌年、同社のケーブル製造子会社北ドイツ海底ケーブル会社が、ヤップ島から三本のケーブルを敷設した。一つはセレベス諸島のメナドにいたり、そこでオランダの東インドケーブルへ接続した。二つ目はグアムまで引かれ、太平洋ケーブルと接続した。三つ目は上海まで引かれ、そこで別のケーブルによって膠州までリレーされた。 この1903年、(アリアンツなどの)ドイツ企業が米国企業の再保険を引受けるようになった。まだ合衆国には代理店を出せず、取引を再保険に限り、ヨーロッパ企業を通して受注していた。必ずしも不便に甘んじたわけではなく、元受と同一条件で引き受けていた。この再保険は保険会社同士の互助ではなく、ドイツの新規開拓事業であった。そのドイツ保険会社は合衆国の再保専門会社等に継承された。同年、AEGがゼネラル・エレクトリックからウニオン社を吸収合併する合意をとりつけた。 1905年、ドイツは第一次モロッコ事件でフランスに強硬姿勢をとった。 一方、アメリカ資本の激動が三国協商の完成期としては奇妙な現象を引き起こした。 ドイツの金貨が1907年恐慌でイングランド銀行へ輸出されたのである。1907年10月22日から12月31日までに383.8万ポンド。イギリスからはドイツコインが輸出された形跡はない。英米間ではイングランド銀行からのドル金貨が439.3万ポンド、イングランド銀行へのドル金貨が322.6万ポンド、純輸出が106.7万ポンド。金塊での純輸出は554.9万ポンドである(698.1-143.2)。ドイツの金貨はイングランド経由でアメリカへ渡ったものとみるのが妥当である。ライヒスバンクの1912年12月末の貸借対照表によれば、外国為替手形保有高は200万ポンド以上であり、その半分近くがイギリスに投資されていた。
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