四一式騎砲
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制式名 | 四一式騎砲 | |
重量 | 903kg(制定時) 928kg(改良後) |
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砲口径 | 75mm | |
砲身長 | 2195mm | |
砲口初速 | 510m/s | |
最大射程 | 8380m | |
俯仰角 | -8~+16.5度 | |
水平射角 | 左右3.3度 | |
使用弾種 | 十年式榴弾 九〇式榴弾 九四式榴弾 九五式破甲榴弾 九七式鋼性銑榴弾 三八式榴霰弾 八七式鋼性銑尖鋭弾 九〇式尖鋭弾 九〇式榴霰弾 九〇式焼夷弾 九〇式照明弾 九〇式発煙弾 等 |
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製造国 | 大日本帝国 | |
総生産数 |
四一式騎砲は大日本帝国陸軍が1911年(明治44年)に制式制定した、騎兵部隊用の軽量野砲である。
概要
騎兵部隊の速い進軍速度に合わせて三八式野砲の輓曳速度を高めるため、これを軽量化した砲である。
明治41年に大阪砲兵工廠に開発が令達されたことから四一式として制定された。
三八式野砲との差は主に砲身部分であり、約2口径分の砲身を短縮し、砲身肉厚も若干薄くし、また半自動水平鎖栓ブロックを手動の段隔螺式閉鎖機にすることで、三八式野砲より約40kgの軽量化に成功した。審査の結果、1911年(明治44年)に制式制定された。しかし、閉鎖機は軽量化のしすぎで強度が不足しており、制式制定後も数次にわたる変更が加えられ、最終的には三八式野砲との重量差は20kg程度にまで詰まってしまった。
結局のところ、発射速度がやや遅く、射程が若干短いという欠点が目立ってしまい、成功作とは見做されなかった。とはいえ、後継騎砲の開発に失敗したこともあり、各騎兵旅団の騎砲兵隊ないし騎砲兵連隊は昭和10年代に各々解散するまで本砲を使用し続けており、なかんずく最後の乗馬騎兵旅団であった騎兵第4旅団の騎砲兵第4連隊は1945年(昭和20年)の終戦時に中国軍に武装解除されるまで本砲を装備していた。
関連項目
- 三八式野砲
- 大日本帝国陸軍兵器一覧
- 騎馬砲兵
- 短八糎外筒砲 - 元の名称は「短三吋外筒砲」。八糎(センチ)とあるが、実口径は三吋(インチ)=76.2 mm。1916年(大正5年)に採用された、日本海軍の艦砲の訓練砲だが、砲車に載せて地上で使用することもできた。上海特別陸戦隊が使用している。しばしば、四一式騎砲と間違われる。
「Type 41 75 mm Cavalry Gun」の例文・使い方・用例・文例
- 彼の部屋番号は1411です
- 第 2 次世界大戦は 1941 年に勃発した.
- 改革案に賛成する者は約 41 パーセントである.
- 1941年から1945年までのドイツのナチス政権下のユダヤ人の大量殺人
- シシリー島の西の群島(現在はエガディ諸島の名で知られる)で、ここでローマ海軍がカルタゴ軍に勝ち、紀元前241年に第1次ポエニ戦争が終結した
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- ギリシア都市国家間の3つの有名な戦いの地:紀元前418年、紀元前362年、紀元前207年
- アテネのシラクサ包囲(紀元前415年−413年)は、最終的にはシラクサにより勝ち取られた
- 1941年12月、当島は数百の米軍船舶が勇壮かつ死力を尽くす攻防を繰り広げたが、日本軍が占領した
- 順序を数える際の序数41
- 1941年に三冠王を獲得したサラブレッド
- 汝、多くのことに注視し悩む−ルカ10.41
- 紀元前541年にエフェソスで開始されて、220年後に完成したギリシアの女神アルテミスの大きな神殿
- 1414年−1418年の協議会は、ローマカトリック教会の大シスマを終わらせるのに成功した
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- 世界最長の川(4150マイル)
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