尚恭
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ナビゲーションに移動 検索に移動尚 恭(しょう きょう、1612年3月8日 -1631年3月22日)は、琉球王国第二尚氏王統の王族。第8代尚豊王の長男。大和名は浦添王子朝良。
概要
1612年3月8日(万暦40年2月6日)、父・尚豊、母・我謝上森按司加那志の長男として誕生した。童名は真三良金、号は良春。最初玉城王子と称し、次に浦添王子と称した。第7代尚寧王に世子(世継ぎ)がいなかったので、父・尚豊を差し置いて世子に選ばれた。しかし、尚寧王薨去時、尚恭はわずか9歳(数え年)であったため三司官・読谷山親方盛韶(毛氏冨川殿内5世)等が相談の上薩摩に進言して、父・尚豊が王位に就いた。
1631年3月22日(崇禎4年2月20日)、父に先立って20歳(数え年)で死去したため、王位に就くことはなかった。尚豊王のあとは、弟の尚賢が王位に就いた。尚恭長女の浦添翁主は高嶺御殿の元祖となった。
家族
- 父 - 尚豊王
- 母 - 我謝上森按司加那志(小禄御殿4世・具志頭王子朝盛長女)
- 妻 - 城間按司加那志(童名・真加戸樽金、号・雲嶺。毛氏豊見城殿内6世・豊見城親方盛良長女)
- 子女
- 長女 - 浦添翁主(童名・思乙金、号・花牖。高嶺御殿1世)
参考文献
- 鄭秉哲『球陽』 球陽研究会編、角川書店〈沖縄文化史料集成5〉、1974年。
- 比嘉朝進『士族門中家譜』 球陽出版社、2005年。
関連項目
正慶
改元
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元徳3年8月9日(ユリウス暦1331年9月1日)、後醍醐天皇は「元徳」から「元弘」へと改元した。しかし、後醍醐天皇が倒幕を企てると、鎌倉幕府は改元を認めず「元徳」を使い続けるとともに、9月20日(10月22日)には皇太子の即位を要請して、光厳天皇が即位した。翌年、後醍醐天皇は隠岐に流され、元弘2年4月28日(1332年5月23日)、光厳天皇は正慶に代始改元した。出典は『易経』益卦の注「以 二 中正有慶之徳 一 、有 レ 攸 レ 往也、何適而不 レ 利哉」[1]。勘申者は菅原公時、菅原長員[2]。
しかし、正慶2年/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡した。5月25日(7月7日)に光厳天皇は退位し、正慶の元号は廃された。その翌年の元弘4年1月29日(1334年3月5日)には建武へと改元された。後醍醐天皇はこのとき、光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言した。
西暦との対照表
※は小の月を示す。
正慶元年(壬申) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ | |
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元弘二年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1332/1/28 | 2/27 | 3/27 | 4/26 | 5/25 | 6/24 | 7/24 | 8/22 | 9/21 | 10/20 | 11/19 | 12/19 | |
正慶二年(癸酉) | 一月※ | 二月 | 閏二月※ | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ |
元弘三年 | |||||||||||||
ユリウス暦 | 1333/1/17 | 2/15 | 3/17 | 4/15 | 5/15 | 6/13 | 7/13 | 8/11 | 9/10 | 10/10 | 11/8 | 12/8 | 1334/1/7 |
出典
関連項目
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