P・D・ウスペンスキーによるグルジエフ解釈
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「ピョートル・ウスペンスキー」の記事における「P・D・ウスペンスキーによるグルジエフ解釈」の解説
P・D・ウスペンスキー自身が「システム」の破綻を認めていることから、彼によるグルジエフ解釈、「自己想起」や「題四の道」について彼がかつて教えたことについて論じるのは、彼自身の遺志に反することとなるかもしれない。以下に触れる考えの多くをP・D・ウスペンスキーは最後には捨て去った、または改めたと思われる。 グルジエフが「時間」そのものから生じる万物を死に向かわせるところの流れをおそらく熱力学第二法則との関係で深く理解し、それに対抗するところの宇宙の仕組みを「三の法則」と「七の法則」との関係で解き明かし、それをエニアグラムをもって表し、下向きの流れに逆らって時間に耐えうるものをみずからの内面に育てることを個人にとっての取り組みの主眼とした。これに対し、P・D・ウスペンスキーは、人は死んだら生まれた年に戻るのだという「永劫回帰」を信じ、イマヌエル・カントがそう言うからということで「時間」は実在しないと説き、魂とは一部の人が生きるなかで内面に育ているものであって、生きることの意味はまさにそこにあるというグルジエフの見解に逆らって、最初から人に備わった魂という考えにこだわった。一部、グルジエフに由来する概念を流用しているが、グルジエフの宇宙観・人間勘と相容れるものではない。 ウスペンスキー:人は四つの部分からなる。体、魂、本質、人格である。本質と人格についてはもう話した。「システム」において、魂という言葉は、生命原理を意味する。精妙な物質もしくはエネルギーがひとまとまりになって肉体に結び付いている。それが体の内部に留まるかぎり、体は生命を保ち、体と魂は一体だ。このふたつの分離をもって、体は死んだという。 ウスペンスキー:体が生まれると同時に魂も生まれる。それはたんに体の一部だ。目に見えず、医学、物理、化学はこれを認めないが、これなしには体は存続できない。体が死ぬと、魂は自由になり、それは巨大な電磁石のような働きをする月によって引き付けられる。 Q:人が自分自身を相手に取り組むというのは、救済を求めて、不死性を求めて取り組むのだとばかり、私は思っていました。 ウスペンスキー:たいそうなことを言う。馬鹿なことをして恥をかきたくないからというなら話はわかる。われわれは眠っているので、いつも馬鹿なことをして恥をかいている。 このような決定的な食い違いもしくは教えの改変と、ウスペンスキー自身による死を前にしての「システム」の放棄にもかかわらず、P・D・ウスペンスキーによる改変を受けた「第四の道」の思想は、後代におけるグルジエフ理解に大きな影響を及ぼした。 P・D・ウスペンスキー自身は、「システム」または「第四の道」の教師としてのかりそめの姿を離れることで、かえって彼がかつて教えていた「自己想起」とは異なる意味で、本来の自分自身に立ち返ったようにも見える。それは表面的な敵味方の関係を越えたところで、彼をグルジエフに近づけたかもしれない。死後まもなく発表された英語版の『イワン・オソキン』の大幅に書き改められた最後の二章の内容から、そんなことに思いを向けることができる。P・D・ウスペンスキーは猫を愛し、書き改められた『イワン・オソキン』の最後の章は、二匹の猫の視線を背中に浴びながら、魔術師の家を出て新しい人生へと向かおうとするオソキンの描写で終わる。
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