Pファンク/パーラメントとファンカデリックとは? わかりやすく解説

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Pファンク/パーラメントとファンカデリック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 09:07 UTC 版)

Pファンク」の記事における「Pファンク/パーラメントとファンカデリック」の解説

ブーツィーは『アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング America Eats Its Young 』で数曲ベース弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用激しさについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリック音楽ロックより過ぎたため、一時彼らと距離をおいていた。1974年ブーツィーPファンク戻ってきて一緒にレコーディング行ったが、ジョージブーツィーベース弾きバーニーきっちりアレンジしたファンク色の強い曲を、パーラメントによるアルバムとして出すこととした。1974年カサブランカレーベルと契約しパーラメント2枚目のアルバム『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke』として発表タイトル曲R&Bチャート10位のヒットとなった。このときからメンバーロック色の強い「ファンカデリック」とファンク色の強い「パーラメント」の二つの顔を持って同時に活動していくこととなった1975年にはブーツィージェームス・ブラウンバックバンドJBズホーン陣、メイシオ・パーカーサックス)、フレッド・ウェズリートロンボーン)らを連れて来てパーラメントジャジーテイストもたらした。また同年グレン・ゴインズ(ギターボーカル)、ジェローム・ブレイリー(ドラム)も加入した同年パーラメント3枚目のアルバムチョコレート・シティ Chocolate City 』を発表し、ブラックアルバムチャート20位、ポップアルバムチャート91位のヒットとなった。同タイトル曲は、ドラムマシン導入しブーツィーファズオートワウをかけたベースがうねり、ホーン陣、バーニーピアノバック固めユニゾンコーラスの中をジョージボーカル、というよりアジテーションを行うという、パーラメント音楽スタイル一つの形が完成した曲である。 1975年12月パーラメントは『マザーシップ・コネクション Mothership Connection 』を発表。このアルバムは、ジョージ扮する聖なるエイリアンスターチャイルド」が宇宙船乗って人類聖なるファンク伝道しに来た、という内容コンセプトアルバムであり、ビルボードポップアルバムチャート13位、ブラックアルバムチャート4位のヒット記録したその後パーラメントアルバムはこのファンク伝道師スターチャイルドやドクター・ファンケンシュタインと、宿敵サー・ノウズの戦い物語中心としたコンセプトアルバム作り頂点上り詰めていったブーツィー・コリンズはその派手で目立つ衣装キャラクター、ベースサウンド、声を生かすため、1976年ブーツィーズ・ラバー・バンドを結成したブーツィー星形サングラス星形エレキベーススペース・ベース)という奇抜な出で立ちステージに立ち、またパーラメントほどシリアスではない、どちらかというと子供向けコンセプト例えファンク踊らないと鼻が伸びる『ピノキオ・セオリー Pinocchio Theory 』)で人気博したメイシオ・パーカーフレッド・ウェズリーらは1977年ホーニー・ホーンズという名のインスト・グループを結成した。また1978年にはパーレット、ブライズ・オブ・ファンケンスタインといった女性ボーカルグループを誕生させ、数々のプロジェクト同時進行させていった1976年ファンカデリックはウェストバウンドレーベルからワーナー・ブラザース・レコード移籍それまでヘヴィなギターサウンドを中心としたロックよりの音楽展開していたファンカデリックは、パーラメント成功によりシンセサイザー中心とした洗練されたファンクサウンドに移行していった。1978年には元オハイオ・プレイヤーズジュニー・モリソンPファンク加入し、ジュニーが活躍したファンカデリック『ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ One Nation Under A Groove 』、パーラメント『モーター・ブーティー・アフェアー Motor Booty Affair 』はそれぞれプラチナアルバムゴールド・ディスクとなった。ジュニーの活躍した1979年発表ファンカデリック『アンクル・ジャム・ウォンツ・ユー Uncle Jam Wants You 』収録シングル曲『ニー・ディープ (Not Just) Knee Deep 』も全米1位ヒットとなった。なお、ディスコブームに押さたというのは完全な誤りであり、評論家ネルソン・ジョージは「70年代後半ディスコ対抗できたのはジョージ・クリントンPファンクだけ」と高く評価している。その後メンバージョージとの間に金銭トラブル等により軋轢生じた1980年パーラメントの、1981年ファンカデリックラストアルバム発表しパーラメントファンカデリックとしての活動は、いったん終了した1982年ジョージソロ・アルバム『コンピューター・ゲームス』を発表、「アトミック・ドッグ」がソウル・チャートでヒットした。翌83年「Pファンク・オール・スターズ」名義アルバム発表しブーツィーソロ・アルバムいくつか発表したレイ・デイヴィスザップ加入バーニートーキング・ヘッズ参加したり、セッション・キーボーディストとして活躍し、メイシオはジェームス・ブラウン元へ戻ったりした。しかし、1989年デ・ラ・ソウルファンカデリックの『ニー・ディープ (Not Just) Knee Deep 』をサンプリングした『ミー・マイセルフ・アンド・アイ Me Myself and I 』をヒットさせ、その後レッド・マンスヌープ・ドッグドクター・ドレーなどPファンク聞いて育った世代次々とPファンク・サウンドをサンプリングしてヒット曲発表し再評価の動き高まっていった。Pファンクヒップホップなどに影響与えつづけ、熱狂的な支持者持ち続けており、またジョージブーツィーはじめとして主要メンバー21世紀になってからも活躍中である。

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