Pファンク/パーラメントとファンカデリック
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「Pファンク」の記事における「Pファンク/パーラメントとファンカデリック」の解説
ブーツィーは『アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング America Eats Its Young 』で数曲ベースを弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用の激しさについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリックの音楽はロックより過ぎたため、一時彼らと距離をおいていた。1974年ブーツィーがPファンクに戻ってきて一緒にレコーディングを行ったが、ジョージはブーツィーがベースを弾き、バーニーがきっちりアレンジしたファンク色の強い曲を、パーラメントによるアルバムとして出すこととした。1974年カサブランカレーベルと契約し、パーラメント2枚目のアルバム『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke』として発表、タイトル曲はR&Bチャート10位のヒットとなった。このときからメンバーはロック色の強い「ファンカデリック」とファンク色の強い「パーラメント」の二つの顔を持って同時に活動していくこととなった。 1975年にはブーツィーがジェームス・ブラウンのバックバンドJBズのホーン陣、メイシオ・パーカー(サックス)、フレッド・ウェズリー(トロンボーン)らを連れて来て、パーラメントにジャジーなテイストをもたらした。また同年グレン・ゴインズ(ギター、ボーカル)、ジェローム・ブレイリー(ドラム)も加入した。同年パーラメント3枚目のアルバム『チョコレート・シティ Chocolate City 』を発表し、ブラックアルバムチャート20位、ポップアルバムチャート91位のヒットとなった。同タイトル曲は、ドラムマシンを導入し、ブーツィーのファズとオートワウをかけたベースがうねり、ホーン陣、バーニーのピアノがバックを固め、ユニゾンのコーラスの中をジョージがボーカル、というよりアジテーションを行うという、パーラメントの音楽スタイルの一つの形が完成した曲である。 1975年12月、パーラメントは『マザーシップ・コネクション Mothership Connection 』を発表。このアルバムは、ジョージ扮する聖なるエイリアン「スターチャイルド」が宇宙船に乗って、人類に聖なるファンクを伝道しに来た、という内容のコンセプトアルバムであり、ビルボードポップアルバムチャート13位、ブラックアルバムチャート4位のヒットを記録した。その後、パーラメントのアルバムはこのファンクの伝道師、スターチャイルドやドクター・ファンケンシュタインと、宿敵サー・ノウズの戦いの物語を中心としたコンセプトアルバムを作り、頂点を上り詰めていった。 ブーツィー・コリンズはその派手で目立つ衣装とキャラクター、ベースサウンド、声を生かすため、1976年ブーツィーズ・ラバー・バンドを結成した。ブーツィーは星形のサングラス、星形のエレキベース(スペース・ベース)という奇抜な出で立ちでステージに立ち、またパーラメントほどシリアスではない、どちらかというと子供向けのコンセプト(例えばファンクで踊らないと鼻が伸びる『ピノキオ・セオリー Pinocchio Theory 』)で人気を博した。メイシオ・パーカー、フレッド・ウェズリーらは1977年ホーニー・ホーンズという名のインスト・グループを結成した。また1978年にはパーレット、ブライズ・オブ・ファンケンスタインといった女性ボーカルグループを誕生させ、数々のプロジェクトを同時進行させていった。 1976年ファンカデリックはウェストバウンドレーベルからワーナー・ブラザース・レコードへ移籍。それまでヘヴィなギターサウンドを中心としたロックよりの音楽を展開していたファンカデリックは、パーラメントの成功によりシンセサイザーを中心とした洗練されたファンクサウンドに移行していった。1978年には元オハイオ・プレイヤーズのジュニー・モリソンがPファンクに加入し、ジュニーが活躍したファンカデリック『ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ One Nation Under A Groove 』、パーラメント『モーター・ブーティー・アフェアー Motor Booty Affair 』はそれぞれプラチナアルバム、ゴールド・ディスクとなった。ジュニーの活躍した翌1979年発表のファンカデリック『アンクル・ジャム・ウォンツ・ユー Uncle Jam Wants You 』収録のシングル曲『ニー・ディープ (Not Just) Knee Deep 』も全米1位ヒットとなった。なお、ディスコブームに押さたというのは完全な誤りであり、評論家ネルソン・ジョージは「70年代後半にディスコに対抗できたのはジョージ・クリントンのPファンクだけ」と高く評価している。その後、メンバーとジョージとの間に金銭トラブル等により軋轢が生じた。1980年パーラメントの、1981年ファンカデリックのラストアルバムを発表し、パーラメント、ファンカデリックとしての活動は、いったん終了した。 1982年、ジョージはソロ・アルバム『コンピューター・ゲームス』を発表、「アトミック・ドッグ」がソウル・チャートでヒットした。翌83年「Pファンク・オール・スターズ」名義アルバムを発表し、ブーツィーもソロ・アルバムをいくつか発表した。レイ・デイヴィスはザップへ加入、バーニーはトーキング・ヘッズに参加したり、セッション・キーボーディストとして活躍し、メイシオはジェームス・ブラウンの元へ戻ったりした。しかし、1989年デ・ラ・ソウルはファンカデリックの『ニー・ディープ (Not Just) Knee Deep 』をサンプリングした『ミー・マイセルフ・アンド・アイ Me Myself and I 』をヒットさせ、その後もレッド・マン、スヌープ・ドッグ、ドクター・ドレーなどPファンクを聞いて育った世代が次々とPファンク・サウンドをサンプリングしてヒット曲を発表し、再評価の動きが高まっていった。Pファンクはヒップホップなどに影響を与えつづけ、熱狂的な支持者を持ち続けており、またジョージ、ブーツィーをはじめとして主要メンバーは21世紀になってからも活躍中である。
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