OETA東部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:32 UTC 版)
「フランス委任統治領シリア」の記事における「OETA東部」の解説
詳細は「en:Occupied Enemy Territory Administration」を参照 1918年11月に第一次世界大戦が終結すると、11月8日にいったんはイギリス、フランスともアラブの独立を支持した。1918年11月23日には占領下のオスマン帝国領を統括する「占領下敵国領政庁(英語版)」(Occupied Enemy Territory Administration, OETA)を分割するという布告が発せられ、中東は3つのOETAに分割された。このうちフサイン・イブン・アリーの子でダマスカスに入城したファイサル・イブン・フサインの部下アリ・リザ・エル=リッカビがOETA東部(シリア内陸とトランスヨルダン)を統治し、フサイン・イブン・アリーの3男ファイサル・イブン・フサインを首班とするアラブ政府が成立した。このアラブ政府は、シリアを基盤としたいファイサルによりシリア人を重用した構成となっていた。これに対しフランスはシリアを自国の勢力範囲とみなしていて、シリア民衆の支持を得ようとしているアラブ政府を敵対視した。また、フランスはサイクス・ピコ協定をもとにイギリスに対し、シリアにおけるフランスの権益を認めさせるため、協定中のフランス勢力圏の北東部モースル地方の権利放棄(モースル問題(英語版))とパレスチナにおけるイギリスの独占的地位を承認する取引をおこなった。 1919年1月パリ講和会議にファイサルはフサインの代理として出席し、オスマン帝国領アラブ地域の民族自決の原則による独立と主権の承認を求めたが、フランスのシリアにおける権益確保の姿勢を崩すことは出来なかった。このためアメリカ合衆国提案のアメリカ、イギリス、フランス及びイタリアの4か国で住民意向調査を行なう委員会が設置されたが、アメリカ以外は不参加となり同国代表2名による組織となった。委員会の2名は1919年6月に現地に入って調査を開始した。 1919年4月ファイサルは帰国し、6月議会選挙が行なわれ、全シリア議会が開催された。この議会において、パレスチナを含むシリアの主権とファイサルを国王とする立憲君主制国家として独立することを議決した。5月15日、ギリシャ軍がイズミルに上陸し、希土戦争が勃発。 1919年8月アメリカ合衆国代表2名による住民意向調査委員会の調査報告書が出され、次のように今後の措置が提案された。 パレスチナ、レバノンを含むシリア地方は、ファイサルを国王として単一の立憲君主制国家とし期間を設けて合衆国またはイギリスの委任統治とする。ただし、レバノンはキリスト教徒の自治を認める。 イラク地方はアラブ王家から人民投票により適当な人物を国王に選んで単一の立憲君主制国家とし、シリア同様に委任統治とする。 この委員会報告に対し、フランスはイギリスの陰謀であると非難し、イギリス国内では対フランス関係が悪化するとの懸念と、シリア地方における軍の駐留経費が問題となった。このため、イギリスは1919年9月に、11月にはシリア地方から撤退し、西部はフランス軍、東部はアラブ軍と交替し、パレスチナ及びヨルダン川東岸だけ駐留を続けるとした。この決定によりフランスは9月にシリアへ派兵を開始した。同じ9月にファイサルはロンドンでこの通告を受け、抗議したもののこれが受け入れられなかったため、フランスと交渉を行なった。この結果、条件付きで、シリア内陸部でのアラブ政府の承認をとりつけた。 1920年1月帰国したファイサルに対し、シリアの指導者はフランスがつけた条件を容認できないと非難し、即時完全独立を求め、ファイサルもこれに同調せざるを得なかった。同月、散発的な武装蜂起がシリア各地で起こり、フランス・シリア戦争(英語版)が始まった。
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