NBAプレーヤー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 06:50 UTC 版)
「ウェス・アンセルド」の記事における「NBAプレーヤー時代」の解説
カレッジで目覚しい活躍をしたアンセルドは卒業後1968年のNBAドラフトでボルチモア・ブレッツに1巡目全体2位で指名を受け入団した。それまで1度も勝ち越したことの無かったチームで彼の現役時代の12シーズンでチームは10回勝ち越し、12年連続でプレーオフに出場した。 入団した1年目のシーズン、アンセルドは前年に入団し、最優秀新人賞を獲得したアール・モンロー、得点力の高いガードのケビン・ローアリー、パワーのあるフォワードのガス・ジョンソンと共に活躍、前年ディビジョン6位だったチームは勝ち星を21増やして、57勝25敗で東ディビジョン優勝を果した。アンセルドは平均13.8ポイント、ウィルト・チェンバレンに次ぐNBA2位の18.2リバウンド、2.6アシストを上げ、最優秀新人賞と最優秀選手賞(MVP)を獲得した。両賞を同時に獲得したのはチェンバレンに続いて史上2人目の快挙であった。ジーン・シューヘッドコーチがこの年、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。プレーオフでは準決勝でニューヨーク・ニックスに敗れたものの平均18.8得点、18.5リバウンドをあげた。 1969-70シーズンも平均16.2得点、エルビン・ヘイズに次ぐNBA2位の平均16.7リバウンドをあげた。チームはイースタン・ディビジョン3位となった。 NBAの各チームは、1970-71シーズンに2つのカンファレンスと4つのディビジョンに分けられ、ブレッツは、セントラル・ディビジョンに所属することとなった。カンファレンスファイナルでニックスを倒して念願のNBAファイナル進出を果した。以降、ブレッツはプレーオフの常連チームとなるが、優勝までは手が届かなかった。 入団してから4シーズン連続でNBA2位のリバウンドをあげたアンセルドは、チームがワシントンD.C.に移り、キャピタル・ブレッツと改称、K・C・ジョーンズヘッドコーチが就任した1973-74シーズンは怪我のため26試合に欠場し、平均5.9得点、9.2リバウンドと成績を落とした。 チームがワシントン・ブレッツと改称した1974-75シーズンに平均14.8リバウンドをあげて、初のリバウンド王となった。このシーズン、ニューオーリンズ・ジャズ戦では30リバウンドを記録した。チームは60勝22敗でセントラル・ディビジョンチャンピオンとなった。ブレッツ(現ウィザーズ)が60勝をあげたのは、このシーズンのみである。バッファロー・ブレーブスを4勝3敗、ボストン・セルティックスを4勝2敗で破り、4年ぶりに自身2度目のNBAファイナル進出を果したが、リック・バリーを擁するゴールデンステート・ウォリアーズに4連敗で敗れた。 1975-76シーズンはNBA3位の平均13.3リバウンドとリバウンドは減ったものの、シュート成功率56.1%をマークした。チームは48勝34敗でシーズンを終えた。1976-77シーズンも48勝34敗でシーズンを終えたチームは、1977-78シーズンに念願のNBAファイナル制覇を果たした。得点でNBAベスト20に入った選手は1人もいなかったが、平均19.7得点のヘイズ、19.3得点のボブ・ダンドリッジを始めとする6人の選手が平均10得点以上をあげ、アンセルドは、平均7.6得点、NBA10位の11.9リバウンドをあげた。レギュラーシーズンを44勝38敗でディビジョン2位で終えたチームは、アトランタ・ホークス、サンアントニオ・スパーズ、フィラデルフィア・セブンティシクサーズを破り、NBAファイナルに進出した。ディック・モッタヘッドコーチに率いられたチームは、シアトル・スーパーソニックスを4勝3敗で倒し、チャンピオンリングを獲得した。アンセルドは、プレーオフで平均9.4得点、12.0リバウンドをあげて、ファイナルMVPにも選ばれた。翌1978-79シーズンにも54勝28敗の成績をあげたブレッツはファイナル進出を果すが、レニー・ウィルケンズヘッドコーチのスーパーソニックスに1勝4敗で敗れて2度目の優勝はならなかった。 長年ひざの故障に苦しんだ彼は、1980-81シーズン終了後に現役を引退し、チームのフロントに入った。 70年代に4回NBAファイナルに進み優勝は1回だった。 1988年にバスケットボール殿堂入りを果した。また1996年にはNBAの50周年を記念して選ばれた「NBA偉大な50選手」の一人にも選出された。 2020年6月2日死去。74歳没。
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NBAプレーヤー時代
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「ハル・グリア」の記事における「NBAプレーヤー時代」の解説
ハルはカレッジ卒業後の1958年にNBAドラフト2巡目6位でシラキューズ・ナショナルズ(76ers)にピックアップされ入団する。彼が入団した当時ナショナルズは強豪チームでありプレーオフの常連でもあった。そのため彼は目立った活躍は出来ず、ルーキーシーズンは、ゲーム平均11.1ポイント・2.9リバウンド・1.5アシストを記録した。チームはプレーオフに進出するが、1955年の優勝以来NBAファイナルにまではなかなか届かなかった。 その後、1963年にチームが本拠地をフィラデルフィアに移し、名称もセブンティシクサーズ (76ers) と改める。1965年にはトレードでウィルト・チェンバレンを獲得。大型センターの加入でハルの持ち味がさらに引き出され、1966年には55勝をあげて地区優勝を果たす。ハルはゲーム平均22.7ポイント・5.9リバウンド・4.8アシストを記録した。翌1967年にはさらに躍進し、68勝をあげる。彼はこの年ゲーム平均22.1ポイント・5.3リバウンド・3.8アシストを記録して地区優勝に貢献した。チームも念願のNBAファイナルを制覇しハルはリングを手に入れた。1968年にも62勝をあげて地区優勝し、ハルもキャリアハイとなるゲーム平均24.1ポイント・5.4リバウンド・4.5アシストを記録した。またこの年にはNBAオールスターゲームの最優秀選手 (MVP) にも選出された。 その後も3年連続でプレーオフ進出は果たすが、ハルの衰えとともにチームも衰退し、ハルは1973年に76ersひと筋15年間の選手生活から引退した。引退後、1982年に殿堂入りし、また1996年にはNBAの50周年を記念して選ばれた「NBA偉大な50選手」の一人にも選出された。
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