NBAドラフトと死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/06 13:22 UTC 版)
「レン・バイアス」の記事における「NBAドラフトと死去」の解説
1984年、ボストン・セルティックスの社長兼GMのレッド・アワーバックはシアトル・スーパーソニックスに対してトレードを行い、ジェラルド・ヘンダーソン+金銭と引き換えにNBAドラフト全体2位指名権を得ていた。1985-86シーズンのセルティックスはラリー・バード、ケビン・マクヘイル、ロバート・パリッシュのビッグ3を擁し、「史上最強のチーム」と謳われていた。1983-84シーズンから3シーズン連続でのNBAファイナル進出を決め、ファイナルではヒューストン・ロケッツを破って2年ぶりの優勝を果たした。 1986年6月17日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた1986年のNBAドラフトで、バイアスはセルティックスに1巡目全体2位で指名された。1巡目全体1位はクリーブランド・キャバリアーズに指名されたブラッド・ドアティー(英語版)であり、1巡目全体8位にはロン・ハーパーが、1巡目全体24位にはアルビダス・サボニスが、2巡目全体25位にはマーク・プライスが、2巡目全体27位にはデニス・ロッドマンが、2巡目全体46位にはジェフ・ホーナセックが、3巡目全体60位にはドラゼン・ペトロビッチが指名されている。ドラフト後、バイアスと家族はメリーランド州郊外の自宅に戻った。6月18日、バイアスと父親は契約の受け入れや調印式などのため、自宅に近いワシントンD.C.からセルティックスの本拠地であるマサチューセッツ州ボストンに飛んだ。バイアスはリーボックのスポーツマーケティング部門と年間160万ドルでの5年契約を結んだ。 ボストンからメリーランド州の自宅に戻ると、バイアスは大学のキャンパスにある選手寮の自室までスポーツカーを運転した。何人かのチームメイトやサッカーチームのメンバーと会食した後、6月19日の午前2時頃にキャンパス外に車を走らせ、3時にワシントン・ホールにある寮に戻って就寝した。バイアスが何人かの友人とコカインを使用したのはキャンパス外に出た時であり、ワシントンD.C.でも有数の違法薬物売買の場であるモンタナ・アベニューで、バイアスら少なくとも2人が乗った車が覆面パトカーに目撃されていた。キャンパスの予定表によれば、バイアスはチームメイトのテリー・ロングとの会話中、6時25分から6時30分の間に発作を起こして倒れた。6時32分には親友のブライアン・トリブルによってプリンスジョージズ郡の救急サービスに救急通報がなされたが、バイアスは意識不明で呼吸がなかった。救急医療チームは最善を尽くしたが、バイアスの心動と呼吸はよみがえらなかった。リヴァーデイル(英語版)にあるリーランド記念病院の救急部門でも懸命な努力がなされたが、8時55分に死亡が確認された。死因はコカインのオーバードーズ(過剰摂取)による心臓突然死だった。彼の死後、コカイン以外の違法薬物やアルコールは検出されなかったことが報じられた。 死去から4日後の6月23日、11,000人以上の人々が追悼のためにテラピンズの活動場所であるコール・フィールド・ハウスを訪れた。彼らの中には、ドラフトの3年以上前からバイアスの動向を追っていたセルティックスのアワーバックも含まれていた。アワーバックは「ジョン・F・ケネディ大統領暗殺以来、ボストンの町がこんなにショックを受けたことはなかった」と述べた。バイアスはメリーランド州スーツランドのリンカーン記念墓地に埋葬された。6月30日、セルティックスはクラブの追悼式でバイアスを称え、使用されることがなかった背番号30のユニフォームを母親のロナイズに捧げた。
※この「NBAドラフトと死去」の解説は、「レン・バイアス」の解説の一部です。
「NBAドラフトと死去」を含む「レン・バイアス」の記事については、「レン・バイアス」の概要を参照ください。
- NBAドラフトと死去のページへのリンク