IBMにてとは? わかりやすく解説

IBMにて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:14 UTC 版)

三井信雄」の記事における「IBMにて」の解説

NHKプロジェクト通じてIBMとのつながりができ、IBMゼネラル・マネジャーであったボブ・エバンズにヘッドハンティングされる。1969年便宜上日本IBM入社して籍を置き、一週間後にはIBM Corporation米国IBM)のFSDFederal Systems Division)に配属されるFSDではアポロ計画におけるプログラム開発携わる1971年同社ラーレイ研究所SCDSystem Communications Division)のオペレーション担当マネジャーとなり、後にIBMメインフレームにおける標準通信システム体系となるSNASystems Network Architecture)に基づく通信システムおよび機器開発携わる1973年日本IBM藤沢研究所当時日本IBM研究所所長就任し本格的な日本語処理開発取り組みJISコード策定している。また、世界向けGemstone宝石低価格端末機シリーズにも取り組み、これは後にIBM 3101IBM 3104(IBM 5250サブシステム)、IBM 3178/3179(IBM 3270サブシステム)などの表示装置として発表出荷された。 1980年1月、ラーレイ研究所SCDバイス・プレジデントゼネラル・マネジャー就任し、その工場日本式品質管理方式取り入れ生産性向上成功するこの頃当時IBM PCOSとしてMS-DOS採用する件でIBM接触があった、ビル・ゲイツ出会う。これはIBM PC DOSとなったその後ビル・ゲイツとの親交続いている。 1982年3月日本IBM常務取締役就任1983年日本IBMにおいてアジア・太平洋地域における開発製造戦略統括する組織である「APTOAsia Pacific Technical Operations)」が新設され同社常務取締役開発・製造事業推進担当としてそのトップとなり、大和研究所野洲研究所東京基礎研究所を設立するこの頃コンピュータ今後必ず小型化方向へ向かうと確信してパーソナル・コンピュータ開発推進し、これが1989年の日本IBMによる「ThinkPad」の開発・製造へと繋がっていく。 1984年5月専務取締役経て1990年4月日本IBM副社長就任当時の社長椎名武雄副社長理郎とともに日本IBMを「世界日本IBM」に育てあげた功労者一人である。 1990年6月IBM Corporation副社長選任されEntry System Technology担当役員など歴任するまた、1991年12月IBMApple合弁会社KALEIDAの取締役就任する1993年7月IBM Corporation全世界向けて次世代パーソナルシステムの開発と販売を行うために設立したPower Personal Systems社の社長に就任しPowerPC開発と普及務める。この頃Apple Computer買収し当時不振であったIBMパソコン部門と統合して新会社設立する構想持ち上がり三井アップルとの買収交渉加わり当時アップル社長であったジョン・スカリーとの交渉重ねたが、結果的に買収金額折り合わず実現しなかった。 1995年7月IBM Corporationから退社する

※この「IBMにて」の解説は、「三井信雄」の解説の一部です。
「IBMにて」を含む「三井信雄」の記事については、「三井信雄」の概要を参照ください。

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