IBMにて
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NHKのプロジェクトを通じてIBMとのつながりができ、IBMのゼネラル・マネジャーであったボブ・エバンズにヘッドハンティングされる。1969年、便宜上日本IBMに入社して籍を置き、一週間後にはIBM Corporation(米国IBM)のFSD(Federal Systems Division)に配属される。FSDではアポロ計画におけるプログラム開発に携わる。 1971年、同社ラーレイ研究所のSCD(System Communications Division)のオペレーション担当マネジャーとなり、後にIBMのメインフレームにおける標準の通信システム体系となるSNA(Systems Network Architecture)に基づく通信システムおよび機器の開発に携わる。 1973年、日本IBMの藤沢研究所(当時は日本IBM研究所)所長に就任し、本格的な日本語処理の開発に取り組み、JISコードを策定している。また、世界向けGemstone(宝石)低価格端末機シリーズにも取り組み、これは後にIBM 3101、IBM 3104(IBM 5250サブシステム)、IBM 3178/3179(IBM 3270サブシステム)などの表示装置として発表・出荷された。 1980年1月、ラーレイ研究所SCDのバイス・プレジデント兼ゼネラル・マネジャーに就任し、その工場に日本式の品質管理方式を取り入れ生産性向上に成功する。この頃、当時IBM PC用OSとしてMS-DOSを採用する件でIBMと接触があった、ビル・ゲイツと出会う。これはIBM PC DOSとなった。その後もビル・ゲイツとの親交は続いている。 1982年3月、日本IBMの常務取締役に就任。1983年、日本IBMにおいてアジア・太平洋地域における開発製造戦略を統括する組織である「APTO(Asia Pacific Technical Operations)」が新設され、同社常務取締役開発・製造・事業推進担当としてそのトップとなり、大和研究所、野洲研究所、東京基礎研究所を設立する。この頃、コンピュータは今後必ず小型化の方向へ向かうと確信して、パーソナル・コンピュータの開発を推進し、これが1989年の日本IBMによる「ThinkPad」の開発・製造へと繋がっていく。 1984年5月、専務取締役を経て、1990年4月、日本IBM副社長に就任。当時の社長椎名武雄、副社長本林理郎とともに、日本IBMを「世界の日本IBM」に育てあげた功労者の一人である。 1990年6月、IBM Corporation副社長に選任され、Entry System Technology担当役員なども歴任する。また、1991年12月、IBMとAppleの合弁会社KALEIDAの取締役に就任する。1993年7月、IBM Corporationが全世界に向けて次世代パーソナルシステムの開発と販売を行うために設立したPower Personal Systems社の社長に就任し、PowerPCの開発と普及に務める。この頃、Apple Computerを買収し、当時不振であったIBMのパソコン部門と統合して新会社を設立する構想が持ち上がり、三井もアップルとの買収交渉に加わり、当時アップルの社長であったジョン・スカリーとの交渉を重ねたが、結果的には買収金額が折り合わず実現しなかった。 1995年7月、IBM Corporationから退社する。
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