IBMとの取引
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 15:37 UTC 版)
「ゲイリー・キルドール」の記事における「IBMとの取引」の解説
1980年、IBMはビル・ゲイツの提案でデジタルリサーチに接近した。IBM PC用CP/M-86と呼ばれるCP/Mの次のバージョンの購入を協議するためだった。彼は同僚のトム・ローランダーと共に自家用飛行機でソフトウェアをビル・ゴッドバウトに届けに行くため、いつものように、IBMとの交渉を妻のドロシーに任せた。IBMの代表は、訪問の目的を説明する前に、ドロシーに秘密保持契約にサインするよう要求した。デジタルリサーチの弁護士ゲリー・デービスのアドバイスに従い、ドロシーはゲイリーの賛成なしで合意に署名することを拒否した。ゲイリーは午後に戻りIBMと協議しようとしたが、彼が秘密保持契約にサインしたかどうか、彼がIBMの代表と会ったかどうかについては、デジタルリサーチ側とIBM側とで話が相反している。 2社が合意に達しなかった理由として多数の説がある。あまり製品を作っていないデジタルリサーチが、主要製品であるCP/Mを一回払いではなくロイヤルティー・ベースで売ろうとしていたのかもしれない。同社がデータゼネラル向けのプログラミング言語PL/Iの開発に忙しかったため、IBMから提案された予定通りにCP/M-86をリリースすることができないと、ドロシーが思っていたのかもしれない。あるいは、彼らが単調な形式と考えたものについてDRIが時間をかけていることに、IBMの代表が怒ったのかもしれない。キルドールによれば、その夜、彼とドロシーは休暇をとるためにフロリダへ行ったので、同じ便にIBMの代表が乗り、機内でさらに交渉して合意に達したという。IBMの主任交渉者のジャック・サムズは、ゲイリーには会っていないと主張しており、IBMの同僚の1人も、サムズがその時にそう言ったことを確認した。代表者グループの他の誰かがキルドールと同じ便に乗っていたかもしれないとサムズは認めたが、それは再びマイクロソフトと交渉するためにシアトルへ向かったのかもしれないとした。 サムズはこの話をゲイツにした。ゲイツは、BASICインタプリタや他のいくつかのプログラムをIBM PCに提供することですでに同意していた。その話についてのゲイツの印象は、ゲイリーが気まぐれに「飛びに行った」ということだったと、ゲイツは後に記者に語った。サムズは、使えるオペレーティングシステムを見つけるために、ゲイツのもとを去り、数週間後、シアトル・コンピュータ・プロダクツ (SCP) の86-DOSを提案した。これは、キルドールのCP/MのAPIの実装する独自に開発されたオペレーティングシステムであった。ポール・アレンが、SCPでライセンスの取引を協議した。アレンが86-DOSをIBMのハードウェアに対応させて、IBMはそれをPC DOSとして出荷した。 キルドールはPC DOSのコピーを入手してそれを調査し、CP/Mのソースコードを使用していると結論づけた。 キルドールはどんな法的手段が利用できるかをゲリー・デービスに相談し、ソフトウェアのための知的所有権法が訴えるのに十分明白でないと、デイビスは話した。 キルドールはIBMを法的措置で脅し、IBMは、責任の免除と引き換えにIBM PCのオプションとしてCP/M-86を提供することを提案した。キルドールはそれを受け入れた。彼は、IBMの新しいシステムは重要な商業的な成功でないと思っていた。IBM PCが発売されたとき、IBMはオペレーティングシステムを別売りのオプションとして販売した。オペレーティングシステム・オプションの1つはPC DOSで、40ドルの値段がつけられた。PC DOSは必要なオプションとみなされ、ほとんどのソフトウェア・タイトルはそれを必要とした。PC DOSがない場合、IBM PCはビルトインのカセットBASICしか使用できなかった。CP/M-86は数ヶ月後に240ドルで出荷されたが、DOSと比べるとほとんど売れず、はるかにより少ないソフトウェアのサポートしか享受できなかった。
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