24回目「諜報飛行」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/19 16:07 UTC 版)
「LZ 130 (飛行船)」の記事における「24回目「諜報飛行」」の解説
24回目 (1939年8月2日-4日) 「諜報飛行」(Spionagefahrt)とも呼ばれる24回目の飛行は、LZ130による最も長い飛行であり、時間にして48時間、距離で4,203kmにおよぶ。主な目的はイギリスのチェーン・ホーム(en:Chain Home)・レーダーシステムに関する情報を秘密裏に集めることだった。そのため、飛行船はイギリスの東の海岸近くを北に向かい、シェトランド諸島まで行って引き返した。船上には45人の乗組員と28人の測定員がいた。発進は1939年8月2日の20時53分で、23時38分にはヒルデスハイムの上空を通過したが、ごくわずかな人に目撃されただけだった。 この飛行のことは、エルンスト・ブロイニング博士によって書かれたアルベルト・ザムトの記録『ツェッペリン、わが人生(Mein Leben für den Zeppelin)』の「LZ 130グラーフ・ツェッペリンによる電波傍受と無線測位の飛行(Mit LZ 130 Graf Zeppelin auf Funkhorch- und Funkortungsfahr)」の章に記述されている。 この記録には、1939年8月2日から4日にかけての、電波測定のためのスパイ・バスケットが使われた諜報飛行の詳細が記述されている。ザムトはLZ 130を大ブリテン島東岸からシェトランド諸島に向けて飛行させ、またゆっくりと戻ってきた。そして見慣れないアンテナを調査するためにアバディーンでエンジンを(故障と偽って)停止させた。自由気球として西へ漂流し、陸地の上に達した彼らは、飛行船の周りを旋回する新型のスーパーマリン スピットファイアを初めて視認し、写真を撮影した。 8月4日の夕方、飛行からの帰途、LZ 130はフランクフルト付近で着陸がまだ可能でない旨の長波による警告を受け取った。彼らは初め、飛行機が現地に墜落したと考えたが、上空を通過しても何も異常は見つからなかった。旋回してレン山脈方向に飛行しながら尋ねると、「日没以前の着陸は不可」との情報がもたらされた。そこでフランクフルトに戻ることにし、超短波無線機で地上チームと直接話すことにした。その際、フランスに傍受されることを恐れて地上チームのリーダーであるボイレとは訛りの強いシュヴァーベン方言で会話した。 ボイレはLZ 130に、イギリスが彼らの行動について外交的な抗議を申し入れてきたこと、そのためにまだ着陸してはならないこと、さらに、船内を調査するために、ドイツ政府の同意を得てイギリス代表団が飛行場に来ていることを伝えた。彼らは嫌疑の対象となっていた。ボイレは、対策を考えるまでしばらく待つように指示した。 まもなく、LZ 130は次のような指示を受けた。すなわち、船内のすべての計測器を隠すこと、地上チームが待機している燈火の点った通常の着陸地点には降りないこと、その反対側に「本当の」着陸チームがいて光信号で合図するのでそこに降りること、着陸したらブロイニングたちは直ちに下船して突撃隊員の扮する偽の乗組員と入れ替わること、などである。 そしてイギリス調査団は間違った着陸地点で待たされ、その後、飛行船は気象状況のために飛行場の別の場所に着陸せざるを得なかったと告げられた。イギリス人が飛行場を横切って飛行船へ向かう頃には、「本当の」乗組員はホテルに向かうバスの中にいた。イギリス人たちは船を捜索したが、船内からも、偽の突撃隊乗組員からも、疑わしいものは何も見つけることができなかった。 ブロイニング博士は飛行の結果の有効性を否定し、またそれはチャーチルが回顧録に書いているようにイギリスがレーダーのスイッチを切っていたためではないと語った。ドイツのマルティーニ将軍は、電波の用途に最適な波長を決定するために、高出力で、パルスが強く、かつ広帯域の電波を発信していた。そのパルスは、10ないし12メートルの波長帯において高感度レシーバーをひどく妨害した。エルンスト・ブロイニング博士は、スパイ飛行の間はその発信をやめるよう繰り返しマルティーニに要請したが、聞き入れられなかったと書いている。それにより、LZ 130は、イギリスが使っていたまさにその周波数帯を調査することができなかった。
※この「24回目「諜報飛行」」の解説は、「LZ 130 (飛行船)」の解説の一部です。
「24回目「諜報飛行」」を含む「LZ 130 (飛行船)」の記事については、「LZ 130 (飛行船)」の概要を参照ください。
- 24回目「諜報飛行」のページへのリンク