20世記
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「レイクビュー (オレゴン州)」の記事における「20世記」の解説
1906年には連邦政府がグース湖保全地域を設定。その後、1843年にこの地を探検したジョン・C・フレモントに因んで、フレモント国立保全地域と改名した。そして1908年、フレモント国有林が成立し、レイクビューに管理棟が設置された。 1909年、オレゴン峡谷土地会社がオレゴン中央軍用道の建設に際して取得した土地が競売にかけられた。この競売にはレイクビューの土地の一部も含まれていた。この競売の噂は全米に広がり、数千人の群衆がレイクビューを訪れた。合計14万ヘクタールの土地が1万4千の区画に分けられて買い取られた。しかし、実際にはほとんどの人々がその土地に移り住むことはなかった。レイク郡はこの競売で得た収益を利用して新郡庁舎を建設した。この新庁舎はレンガ造りで、1876年築の木造庁舎を置き換えた。 1911年にはネバダ州リノとレイクビューを結ぶ鉄道が完成した。ネバダ・カリフォルニア・オレゴン鉄道が1927年までこの路線を運営し、その後サザン・パシフィック鉄道に経営権が移った。また、この際に狭軌から標準軌へと軌間が変更された。この路線により、複数の製材所がレイクビューに立地するようになった。 1913年、ウィリアム・P・ヘリーフォードが郡庁の正面に3階建のビルを建設した。このヘリーフォード・ブラザーズビルは建設費約10万米ドルをかけて建設され、当時のレイクビューで最大の建築物であった。当時の最新設備である自家発電機、エレベーター、電気照明、電話などが設置されていた。 レイクビューではフレモント国有林の豊富な木材資源を背景に製材業が発展した。1940年には7つの製材所がレイクビューには存在し、全ての製材所が最新式の乾燥炉を導入して1年中稼働していた。しかし、第二次世界大戦中に製材業は一時衰退、1946年までに4つの製材所が閉鎖され、木材生産量も3,900万ボードフィートまで減少した。しかし、その後製材業は復興を遂げ、1952年には生産量が8,120万ボードフィートまで回復した。1950年代はレイクビューにおける製材業の最盛期であり、当時レイクビューで働く人の半分以上が製材所で勤務し、町の総生産高の半分以上を製材所が生み出していた。 1950年代中期、レイクビュー北方の山地にウラン採掘の請求がなされ、ホワイトキング鉱山、ラッキーラス鉱山が稼働し始めた。さらに、1958年には日産210トンの能力があるウラン精製プラントがレイクビュー郊外に開設した。この工場では50人が雇用され、さらに120人が2つの鉱山で雇用された。しかし、精製プラントは1961年に閉鎖された。 1985年には、サザンパシフィック鉄道がレイクビュー支線の廃止を計画していることを発表。そして、翌年1月にレイク郡がコロラド・グレートウエスタン鉄道に運営権を委任した。しかし、1996年からはレイク郡が運営権を取得、レイク郡鉄道に改名して運営を続けた。さらに、2007年からはモドックノーザン鉄道が郡から鉄道を借り受け、2009年にレイク鉄道と改名してフロンティア・レイルが運営を開始した。
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