1998年のドラフト、突然の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:40 UTC 版)
「三輪田勝利」の記事における「1998年のドラフト、突然の死」の解説
「新垣事件」も参照 1998年のドラフト会議において、オリックス・ブルーウェーブは新垣渚(沖縄県立沖縄水産高等学校)を1位指名したが、福岡ダイエーホークスと重複し、抽選で交渉権を獲得した。ところが、新垣は「ダイエー以外だったら(九州共立大学へ)進学する」と発言し、オリックスへの入団拒否を表明した。三輪田は球団上層部に「新垣宅へ行ったものの(面会を)断られた」と報告したが、上層部から叱責された。新垣側と球団の板挟みになった三輪田は心身ともに追い込まれ、1998年11月27日に那覇市内で投身自殺した。53歳没。遺書は発見されなかったが、遺体発見現場の状況や経緯から三輪田の死は自殺と断定され、1999年に労働災害が認められた。 この事件を週刊誌が数多く記事にし、その中には「ドラフト指名選手や関係者への口利きをする」などと自称する代理人の存在や、ドラフト指名選手・関係者への口利きを口実にした詐欺行為の存在なども噂として書かれ、三輪田はこれに騙されたのではないかとする報道も見られた。各関係方面からの調査も行われたが、真相は定かではない。 当時、オリックス球団社長だった井箟重慶は、三輪田の自殺を受けての記者会見で「球団に責任があったとは思っていない」と発言したことで非難を浴びたほか、新垣や新垣の家族、学校関係者にも批判が続出した。 新垣は三輪田の死後、球団本部長の矢野清と面会した。自らがオリックス入団を拒否し、面会を拒否したことで三輪田が自ら命を絶ったことに責任を感じ、「(野球を辞めるべきか)悩んだ時期もあった」という。また、三輪田夫人から「(三輪田の死は)あなた(新垣)のせいではない。これからも頑張って」と激励された。 またイチローこと鈴木一朗は幼少期より地元愛知県の中日ドラゴンズ入団を熱望していたが、当時中日の監督だった星野仙一やスカウトだった池田英俊が投手としての評価から獲得に消極的だったことや、三輪田の誠意・説得もありオリックス入団を決めた。生前、両者は上下関係を弁えた上で互いの家族を交えたプライベートの交流もあった。三輪田の自殺を知ったイチローは涙し、告別式では三輪田の棺に自身愛用のバットを納め、渡米後も帰国時には三輪田家の墓参りを欠かさない。 1999年にオリックスに入団した山口和男は、活躍する度に、生前のスカウト活動の恩義から「今の自分があるのは三輪田さんのおかげ」と発言している。三輪田の死後も、イチロー・山口らは遺族と交流を続けている。 金村義明も三輪田に敬意を持っていた。金村は三輪田について「高3の時、三輪田さんは(阪急沿線の宝塚にあった)我が家にもスカウトとして挨拶にいらしたんです。三輪田さんは物腰・言動の、良い意味で柔軟・温厚な『紳士』でした。近鉄・阪急の指名競合による勝者が近鉄となった後に面会した際、『近鉄で頑張れ』と温かい言葉をかけて応援して頂いたことは忘れません」と語っている。 当時広島東洋カープのスカウトだった宮本洋二郎が、地元出身の大型内野手の二岡智宏をドラフトで逃した際、偶然三輪田が自殺した年であったため、宮本の妻はどこへ行くときも夫に付き添ったというエピソードがある。
※この「1998年のドラフト、突然の死」の解説は、「三輪田勝利」の解説の一部です。
「1998年のドラフト、突然の死」を含む「三輪田勝利」の記事については、「三輪田勝利」の概要を参照ください。
- 1998年のドラフト、突然の死のページへのリンク